『からだと向きあう』
●からだの中の自然
最近は、クラスのある週末に東京に出かけ、平日は河口湖のアトリエで過ごしている。田舎での生活が長くなったので、山々に囲まれた自然の変化がこれまで以上に感じられ、癒されている自分に気づく。移りゆく木々の色、咲き乱れる庭の花々、美しい鳥たちの声や、春に裏の納屋で生まれた野良猫の子どもたち。天気によってその悠然とした姿を見え隠れさせる富士の山。そんな自然の有り様に囲まれていると、実に幸せな気分になる。
都会で生活していると、季節はおろかその日の天気に左右されることもない。雨が降ろうが槍が降ろうが、会社も学校も相当のことがなければ休みにはならない。それがあたりまえとして生きている。晴耕雨読的生活は、昔むかしの神話か、現代にあっては夢のような贅沢なお話になってしまった。
天候、すなわち自然に左右されないというのが、現代人の現代人たる由縁でもある。文明という曙は、自然を克服することによって興ってきた。いかに自然を克服し、いかに人間が自然を越えたと勝ち誇ることが、現代文明や科学思想の第一義なのだ。
東京生まれで、東京育ちの私は、自然に囲まれた環境で長いこと暮らしてこなかった。でも、3年ほど前に富士山にほど近い、河口湖のほとりの村に家を借りることにした。理由は、すべてをコンクリートやアスファルトで囲まれた東京という空間に息苦しさを感じ始めたからだった。東京で生活していたときには、それが自然が枯渇しているせいだとはっきり自覚していたわけではないのだけれど、今思えば、当時の私は金魚が水面に顔を出して口をパクパクさせるような、そんな感覚に陥っていたのだろう。
自然とかけ離れた生活をするようになってから人間は、自らのからだとも遠くかけ離れてしまったように思う。からだもまた自然で不可解なことに満ち満ちている。だいたい皮膚の内側は自分でありながら目には見えないし、ひとつひとつ取り出すこともできない。見えないものは理解し難いから、専門分野で研究し、科学的に理解しようというのが今の社会の考え方だ。でも私はいつも思うのだけれど、自分の人生が学問的かつ科学的でないように、からだもまた学問や科学だけで語れることではない。自分そのものなのだ。
自分のことは自分が一番よく知っている、はずなのだけれど、多くの人は体調がすぐれないとすぐに医師のところへ行く。「私は風邪のように思うのですが、風邪でしょうかね、先生」と医師にお伺いをたてる。「そうですね、風邪のようです」と医師が言うことによって、患者は安心するのだ。自分のからだのことであっても、専門家に聞いたほうが正しい見解が得られるということを教えられているからだ。
反面、大人であれば、いくつかの持病というものをもっていて当然という考えもはびこっている。胃炎や頭痛、腰痛などは日常茶飯事だし、女性の場合は月経不順や月経痛など、だれにでもある不快な症状と思っている人が多い。だからあまり気にもしないし、その原因を探ろうともしなければ、たまのことなら我慢して治そうともしない。でもそれは「ちょっとここが、弱っていますよ。気にして下さいね」という、からだから送られてくる信号なのだ。
ここにも自然に左右されない現代人の顔が見える。もちろん病的になってしまったら、最終的に医学的な治療が必要だ。でも、自分のからだのことなのだ、病気になる前までの段階で予防的な自己管理はもっと積極的になされてもいい。お産が自分のことであると自覚する以前の問題として、まずからだが自分のものであるということを知ってほしいと感じる。
|