home birth top page birth index _お産情報/お産コラム・妊娠は異常事態?


マタニティ・コーディネーター  きくちさかえ

『妊娠は異常事態?』

「出産」には、いわゆる産科学のイメージがほとんどもれなくついてくる。これは、今の時代の世界的な流行だ。もちろんお産は命がけ。何が起こるかわからないという側面もある。けれど、妊娠や出産、授乳、子育てはとてもプライベートな営みなのだから、産む人や生まれてくる人、その家族たちの実感は、医学や科学とはまったく別の世界にある。

 お産は、女のからだから子どもが出てくるという行為だ。「身ふたつになる」という言葉もある。けれどそこには「陣痛」「痛み」「血液」「不浄」というけっこうマイナスなイメージが、どうしてもつきまとう。
 さらに、お産に至る前段階の「妊娠」にもイメージがある。妊娠期間は、もう普段とは違う世界。異次元の世界のように感じている人は多い。なにしろおなかの中にもうひとり人間が入っているのだ。よ〜く考えれば考えるほど、異常な世界である。さらに男にとってはもっともかけ離れた世界だ。なにしろ実感できないのだから、わかろうと努力してみても、申し訳ないのだけれど、こればっかりは意識的な理解の限界を越えることはできない。
 おなかに自分とは別の人間を宿し、それを育てるということは、今のシステマティックな社会の中で考えるとやはり異常な(常ではない)ことだ。「だから神秘的。」とロマンティックに感じる人もいれば、おなかにできた腫瘍や巨大な便のようなイメージを抱く人もいるかもしれない。
 ホラーなイメージをもつ人もいるだろう。帝王切開で生まれてくる子どもなど、まさに母親の腹を割ってこの世に出てくるのだ。肉を割り、血にまみれた生き物がぶちゅっと突然飛び出してくるホラー映画のワンシーンとダブってしまうことだってある。

 妊娠、出産はからだに起こる事件だ。からだが対応する。だから、からだと意識が分離しているような感覚をもっていると、妊娠はなかなか理解しにくい。指も顔も内臓も、自分のものであって自分のものでないような感覚。壊れたらほかのものと取り替えることは不可能ではないから、からだは部品の集合体という感覚ができてしまった。近代西洋医学が、からだを部品化してしまったのだ。からだ全体と心を含めた上でのトータルな人間ではなくて、脳、子宮、胎児、心はすべて別ものと捕らえ、そう教えられてきた。
 けれど、妊娠するとどうもそうではないらしいということを、感じさせられることになる。妊娠中はからだにパラサイト(寄生虫)を飼っている状態だ。パラサイトは当然「私」ではない他者なのだけれど、そのパラサイトを抱えた「私」はそれまでのひとり身だった「私」とは違う。しかもその他者は、「私」のDNAを半分もち、血肉を容赦なくむさぼって成長し、なんと言っても「私」の子どもとしてこの世に登場してくるのだから、腫瘍や便とはわけが違う。ちょっとした女心はくすぐられ、「よしよし」という気分になってくる。
「私」のからだは部品の集合体ではなく、トータルに機能してパラサイトを受け入れ、成長させる。からだは、水族館の巨大水槽や植物園の温室のような、生物をはぐくむ環境になるのだ。
 けれどこれは「私」とパラサイトが同化し、一体化する感覚とは違う。世間には母と子は同化することによって、いかにも愛情溢れた母親であるかのような母親像というものが存在するけれど、それは愛にからめとられた母性愛神話でしかないし、もしそれを母親が感じたとしてもそれはエゴ、錯覚でしかない。
 一方で、この妊娠した状態を非日常と捕らえ、あくまで「私」は元のままであり続けると言い切る人もいるけれど、非日常は10ケ月間も続き、他者を宿した自分自身のからだは明らかに変化していくのだから、非日常の期間だけを切り取ってあえて捨て去ることは過去の自分を否定することになってしまう。妊娠を味わいながら、変わっていく自分を認めてしまったほうがずっと楽しい。

 妊娠するということは、こうした変化を実感することなんじゃないかと思う。妊娠は実感、主観の世界だ。データをもち出されても、産科学のマニュアルを持ち出されても、胎児を包む母親のからだの感覚を説明できるものはない。いかに客観的、合理的、意識的であるかに価値を見い出している今の社会では、妊娠というありようは時代を逆行するような状態なのかもしれない。それを客観的に捕らえ対応しているのが産科学なのだけれど、そこには主観的な母親の気持ちや胎児の気持ちは考慮されていない。からだを部品として捕らえる考え方を基盤にしている医学が出産を独占している今、出産は自然な営みとはいえない状況になっている。

 産科学が語らないお産の側面はたくさんある。
 お産は性的な営みだ。陣痛の波が怒涛のように押寄せ、ひとりの女があえぎ身をよじらせて苦しむ姿は、エクスタシーの前のからだの叫びのようにも見える。実際、赤ちゃんが出る瞬間にエクスタシーを感じたという人もいる。残念なことに、あの苦痛は耐え難く、もう二度と味わいたくないと言う人がけっこういるのだけれど、たぶんそういう人たちは出産のときに十分なケアが受けられなかったのだろう。血まみれというイメージがあるけれど、会陰切開をしないお産では、血液がほとんど見られないケースはよくある。赤ちゃんもツルンとしていて、気持ち悪いなんてこてはまずない。私は会陰切開の行われない自然なお産を数多く見てきたので、会陰切開がぐさっと入ったり、吸引で赤ちゃんがひっぱり出されるお産を見ると、今でも頭がくらくらして気分が悪くなる。
 お産はその環境によって、同じものとは思えないほどまったく違う体験となってしまう。援助してくれる人たちに囲まれ、安全に産める環境があれば、同じ痛みも忘れがたいひどい体験とはならないのだ。
 何が起こるかわからないのもお産だけれど、何が起こるかわからないを事前にかなりクリアすることができるものお産である。予防、自己管理、自己コントロールはかなりの確立で何が起こるかわからないを回避することができる。
 お産には、その人の考え方や生活、生き方がすべて出る。見ていておもしろいくらいだ。ティーンエイジャーのお産は、まことに素直で純粋だ。セックス好きの女は、解放的で官能的な軽いお産をする。何か問題を抱えていたり、からだと意識が分離していたり、お産を意識的に計画的に進めようと考えている人などは、お産がスムーズに進まない場合が多い。産婦の思考が、からだや出産の環境に影響を与えているのがよくわかる。からだというのはとても素直なのだ。そしてお産が終わると「あ、私ってこういう人だったんだ」と思いあたるのである。
 からだを貫く生産的な痛み。その陣痛こそが、“リアル”という存在を産む人に教えてくれるような気がする。
 そう、お産はまことにリアルなのだ。泣きたいくらいリアルだ。そして性器から出てくる子どもの存在もまた、実にリアルである。

 今の社会の中で、リアルを感じさせる場面はもうほとんどなくなってしまった。出産は医療によって管理され、新生児たちは生まれた瞬間から病院のシステムに組込まれる。新生児室に集団で置かれた赤ちゃんたちは、好きな時間におっぱいをほおばることもできないし、泣いてもその声は母に届かない。産婦も生まれたばかりの子どもも、システムに管理されている。それがまるで掟かのように。
 リアル感が失われた世界は、一見便利でスマートに見えるけれど、人間の誕生や死という場面からもそれが失われていくと、人間的な感覚はますます薄れていってしまう。リアルという感覚は、はたしてこの世界からすべて失われたほうがいいものなのだろうか。

(きくちさかえ)







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