私の出産体験記

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私の出産体験記

自然の意味を考えさせてくれた出産

越地 清美さん(1997)


1997.10.1(火)PM11:58 長女(第一子)誕生

ある日、人事の人から不安そうな電話がかかってきました。
「越地さん・・・大丈夫ですか?」
「え、何が?」
「産前休暇・・・。6日しか取らないんですか?」
「いけません?」
「規定では6週間なんですが。」
「(だってもう予定日まで2週間なんだが・・・)別にかまわないんでしょ。」
「ええ、まあ・・・。でも、もし・・・。」
「生まれたら?」
「ええ・・・。」
「まあ、そのときはそういうことで。」
「あの、そんな・・・。」
「じゃ、そういうことでお願いします。」ガシャン。
 助産婦さんの『産むまで働きなさい。』の言葉を胸に、同僚には『職場から産みに行くのが理想なのよね。』と笑っていた私です。しかし・・・、まさかそれが半ば現実になろうとは・・・。

9月29日(日)
 予定日を10月6日に控え、後二日出勤すれば産休というこの日、朝のおりものがなんだか肌色っぽい。“おしるし”という言葉は頭になく、ただ洗濯の手間を省くためにパンティライナ−をつけた私は、次にトイレに行ったときそこに茶色いシミを見つけてドキンとした。35歳にして初めての出産。どうせ遅れるからと産前休暇も最小限にし、(遅れる分も含めて)実質2週間位やりたいことをやってすごそうという私の“計画”は、この段階で早くも崩れていた。そしてこの後3日間、私は“計画”と“予定”という言葉の空しさを何度も何度もかみしめることになる。

 さて“おしるし”から始まったとして『1日やそこらでは生まれない。』くらいの知識は私にもあった。心中では『仕事は今日で最後』と決め、しかし同僚に言うと経験のない人の集まりだけに余計心配すると思い、何喰わぬ顔で引き継ぎを始める。陣痛はまだカケラもない。ただ生理前のどんよりした気配が、低気圧のように徐々に近づいてくるのを感じる。
 夕方、“おりもの”は続いている。助産院の中田先生に電話したら「それはお産になるでしょう。」という返事。その瞬間思った。「ヤレヤレ、結局産前休暇はナシか・・・。」
 同僚である夫には予告して帰宅。義母に告げ、やにわに洗濯をはじめる。陣痛のようなものが現れ始める。あり合わせで夕食。夫帰宅。義母の助言で、お風呂に入り頭を洗い、陣痛逃しのクッションをベットの横に。だいたい明日の晩くらいかなあ、と思う。その晩はときどき訪れる陣痛の間にそれでも気持ちよく眠る。ああ、まだまだ私は甘かった。

9月30日(月)
 先生に電話し、あさ9:00に来院。内診ではまだ骨盤の入り口に達してないとのこと。ただ子宮口は3㎝位開いていて順調に薄くなっている。
 「お風呂に入りなさい」「動きなさい」のお言葉をもらって帰宅。『今晩?』との頭があったのでこれが最後とばかりお昼に鰻をとる。念願の家中掃除を始める。しかしさすがに痛くなってきて、掃除機を片手によく床にへばっていた。20分間隔ぐらいか。
 何度もお風呂に入る。これは気持ちいい。夕方義母が「夕飯どうする?」と言い出す。私は自分がすっかり入院するつもりで、何も用意していなかったことに気づく。
だが、もうそうなっているはずの5分に2回の陣痛にはほど遠い。しかし15分間隔ぐらいにはなっているので夕食の用意をするにはチトきつい。しかたなく店屋物。あまり食べられず。 夕食後、いっこうに時間がたたない。10分間隔ぐらいか。結構痛い。ときどき先生に泣きつき、その度に「まだまだ。」と言われだんだん不機嫌になってくる私の気を紛らわそうと夫が“喜納正吉”のCDをかけてくれる。自棄になって踊る私。この辺から時間の順序が狂ってくる。(オキナワのリズムは陣痛によく合いました。これ本当。)この間、夏物・秋物の入れ替えをやっていたような気もする。よくワカラン。

 PM10:00頃、5分に1回となる。本人はかなり苦しいつもり。だが先生に電話しても「まだまだ・・・。」「その声じゃ・・・。」とOKがでない。「もっとひどくなったら来院していい。」と言う約束をかろうじてとりつける。

 PM11:00頃、耐え切れずに来院。今どこを車が走っているかの感覚がナイ。今度こそイケルかな、と思う。だが内診台での先生の声は厳しい。「お帰んなさい。」「えっっ(たじろぐ私)。」「帰って・・どうせ眠れないんだから階段の登り降りでもしてらっしゃい。呼吸法で痛みを逃し逃しね。」「車から転がりでてくるようでなければダメよ。」

 結局赤ちゃんが降りてこなければ産まれない。そして私に出来ることは補助手段(呼吸法・腰湯・動く)を使いながらそれを待つしかない。あくまで自然に。薬を使わないと言うのはこういうことなのだ。
 あの晩帰されてコンチクショウと思いましたが、先生、どうしょうもないことにきっぱり“No.”と言ってくれて感謝しています。あの時、私の中に『中田先生の所に行けば何とかなる』式の甘えがあったことは確かです。
 その晩帰った後のことはほとんど覚えていない。5分に1回から10分に1回。陣痛はそのあいだを行きつ戻りつし、私は眠ったのか眠らなかったのか。とにかく長丁場だから夫だけでもと、彼の寝顔を見ながら時間のない世界に一人漂っていたことだけは別として。

10月1日(火)
 明けて朝の7時、早速先生から電話があった。全く予期していなかっただけに『ああ見守ってくれていたんだな』と心の底から暖かくなった。その後もときどき助産院に電話をし、先生に励ましていただきながら過ごした長い長い一日も、今ではどこか時間の奥の方に溶けてしまった遠い記憶のようだ。まるでダリの一枚の絵のように。

覚えているのは何度も私の吐いたものを黙って始末してくれた夫。隣の部屋に待機しながら私がハフハフし始めると必ずきてくれた。何とか私に食べさせようと気を使ってくれた義母。そして電話線の向こうの中田先生の声。
 ようやく待ち望んでいた陣痛の波状攻撃がきたのがPM6:00頃。7:00に来院。それで一件落着とならず、この先も2階を歩き回ったり、トイレで“いきみ”の練習(=本番)をしたり、挙げ句の果てに「いきみ方がわからない。」と分娩台の上で先生に言い返したり、まあ本当にお手数をおかけした初産だった。中田先生もさぞかしあきれたことだろう。
 そして・・・実はまだ最後のオマケがあった。胎盤までもがいっこうにでてこない。私はそんなことにも気がつかず無事産まれた喜びでホッとしていた。急に中田先生の手が動いたかと思うと下半身に一風変わった激痛が・・・。生み出すときの痛みとはひと味違う、それでもベッドの柵をもう一度握りなおしてしまうような。
 胎盤は半分破けて半分子宮にくっついていたそうだ。後で聞いたところによるとこの手技が出来る助産婦さんは今はもう滅多にいないとか。私の子宮は危ないところで救われたのだった。これが通常の病院分娩だったら・・・考えただけでゾッとする。
たとえ事前に促進剤を使わないという取り決めをしてあったとしても、あの段階で断りきることがはたしてできたかどうか。その後に及んでは、分娩後の帝王切開とか子宮摘出という最悪の事態になっていたとしてもおかしくない。現に私の知人で子宮を裏返しに引っぱり出されてそれを戻すために帝王切開、輸血の際のB型肝炎のオマケ付き、と言う体験をした人がいる。

 私の場合“臍帯”が短かったのが降りてくるのに時間のかかった一因のようだが何故胎盤が・・・となると。私の質問に対する中田先生の答えはこうだった。「一回一回いろんな風に出来てくるものだから。」そこにはよく見受けられる妊婦を責める姿勢はカケラもない。(いわく「妊娠中、アルコ−ル/カフェイン/その多何でも、取ってたでしょ。」とか「じっとしていなかったから・・・。」とか)
 “自然”てなんだろう。素晴らしいモノでもあるし、恐ろしいモノでもある。私は通常“マル高”と呼ばれる35歳の初産婦だが何故か最初から“自然分娩”以外考えていなかった。そんなある意味で安易な私に、もうひとまわり深い“自然”の意味を考えさせてくれたのが今回の出産体験だったと思う。

伊井助産院の出産ノ−トより


妊娠・出産、母乳ワード101妊娠・出産・産後ワード101
安産と楽しいマタニティライフに役立つ101用語を解説。 監修/医学博士・産婦人科医師(故)進 純郎先生(監修当時)葛飾赤十字産院院長





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