インタビュー3

 血縁者からの卵子提供を受けて
 …加藤みさ子さん(仮名)

聞き手・文/白井千晶 (インタビュー2011年1月)

JISART(日本生殖補助医療標準化機関)では、2008年にガイドラインを策定し、会員施設での非配偶者間体外受精(卵子提供・精子提供)について、会の基準を満たして倫理審査を通ったケースに卵子提供・精子提供を認めています(匿名でない者からの提供を認めることがある、提供を受けるのは不妊で婚姻している妻50歳程度までの夫婦に限る、提供は無償)。

諏訪マタニティークリニックでは、1996年に姉妹間で卵子提供をおこない、非配偶者間体外受精を実施、1997年に子どもが生まれたことを1998年に公表しています(卵子提供は姉妹間、あるいは依頼者と合意した第三者で、提供を受けるのは不妊で婚姻している妻45歳程度までの夫婦に限る、提供は無償)。

2003年に厚労省審議会は匿名の第三者の提供で無償の場合、提供を受ける者が不妊である場合(それによってしか子が持てない場合)、婚姻する夫婦で一定年齢以下、などの条件下での卵子提供を認める報告書を出しています。

JISART会員施設で非配偶者間体外受精を実施している施設(2011年は6施設 http://www.jisart.jp/taigai.html)以外にも、それぞれの施設の基準で、非配偶者間体外受精をおこなっている施設があり、日本国内で、卵子提供を試みた人、卵子提供でお子さんが生まれた人、卵子を提供した人、卵子提供で生まれた人は、数百人はいらっしゃると思われます。

ここでは、日本国内で卵子提供を経験した方のインタビューを紹介します。
どのような経緯で選択し、今、どのように感じていらっしゃるのでしょうか。

加藤みさ子さん(仮名)
40代半ばで、血縁者からの卵子提供により、お子さんを出産。



仕事の面でも家庭の面でも身体的にも、40代前半まで、子どもをもつ環境が整わなかったんです。
でも40歳近くから、生理的に子どもがほしくなっていて。
40代前半から不妊治療をはじめて、排卵誘発も、体外受精も、流産も経験しました。
精神的にダウンしていて、公園で子どもをみると泣いてしまうんだけれど、不妊治療をしても産める可能性が少ないから、里親などの方法も探そうと思って、ボランティアもしました。

子どもたちとふれあって、カウンセリングされていると思うほど励まされて、この方向で進もうと思う気持ちと、不妊治療すれば陽性反応も出たりして、あきらめられない気持ちがありました。
子どもたちと遊ぶのは、はじめの頃は動機が不純(笑)だったんですけど、子どもたちとつながりを感じるようになってきて、だんだんそれ単独で喜びになっていきました。
でも精神的にうつっぽくもなっていたので、目の前にささやかな楽しみをぶら下げて、やっと生きていた感じです。


その時、これまでの経過を知っていた血縁者が、「みさ子ちゃん、卵子ならあげるわよ」って。
驚きました。「え?!いいの?!」と。
急に第三の選択肢が出てきて、びっくりしました。
でもその時は、自分の卵子でもう少し試してみるから、もうちょっと待ってて、と話しました。
それから、かなり間があいてから、卵子提供にステップアップしたんです。

羊水検査は、流産の可能性が怖くてできませんでした。
気持ちが落ち着いたのは、安定期に入ってからなんですけど、でもまたどうせ悲劇に終わるんじゃないかっていうのが半ばあって、本当に育つっていうのが実感がなくて。
また流産するんじゃないか、死産するんじゃないかとかっていう気がどこかであって、もう不幸慣れしちゃって、ハッピーエンドっていうのが描けなくて。


でも無事に生まれたんです。
おぎゃーっていう声を聞いて、ああやっと赤ちゃんが来てくれたってすっごい嬉しかったです。産めるっていうことと、子どもが健康っていうことが信じられなくて。
だけどなぜか、パッと看護士さんがもってきてくれた子どもの横顔が、卵子提供者に似ているような気がしたんです。今思うと、そんなに似てるって思えないんだけど、その時そう見えちゃったんです。一瞬。
だから嬉しさと、罪悪感が、生んだ日にきちゃいました。

妊娠中は、苦難を乗り越えて、安定期にはいって、ああ私子どもが産めそうとなった時には、もう喜びしかなくて、子どもと私の関係が、普通というよりもちょっと違うっていうことにたいしては、ほとんどわだかまりがなかったんですよね。
ボランティアをして血縁にこだわりがなくなっていたというのもあるし、血縁者からの提供で親しみや安心感もあったし。

でも、生まれた日から葛藤で。おめでとうって友だちは次々来てくれるんだけど、嬉しくて、とてもつらい。


生まれてからしばらく、子育てが本当につらかったです。
普通は、産後のこと、赤ちゃんのこと、子育てのこととか、本で読みますよね。
でも、安心するまで怖くて読めなかったんですよね。だから知識が全くなくて。
高齢で、産後で身体もボロボロで、ホルモンが急激に変化するから不安定になるし、眠れないし、慣れないし、知識もないし。
精神が急激に壊れていくんじゃないかと、すごく怖かったです。
その産後うつ状態と、自分の事情をまぜこぜに考えていました。

2か月目ぐらいにはだいぶよくなってきたんですけど、人前でニコニコと子どもを抱いて動けるようになったのは、3か月目ぐらいです。違和感もあるけどかわいいなと。


そんなこともあって、野田さんのニュースについてサイトで騒がれているのを目にした時、心臓がドキドキしちゃう感じがよみがえってきてしまいました。
確かに告知という問題は非常に重要なんだけど、日本の卵子提供というのは、非常に不安感が多いから、まず母子の安定的な愛着関係を作ることが重要なのではないかと思います。
子どものアイデンティティ・クライシスのことも知っていますが、愛着関係の方がまず先だと思います。

産後はホルモンバランスの崩れや環境の変化もあって、ただでさえ不安定になりますよね。自分が自分でなくなる時期といいますか。
この時期の女性が、産後うつや自死と隣り合わせであることを実感しています。

私の場合は、卵子提供をしたのが血縁者で、その血縁者に告知をしないでくれと言われていますので、現実的に難しいところがあります。
でも日本の精神的な構造も変わってくると思うので、状勢を見極めながら、子どもが大きくなってからいつかはと思っています。いざとなったらルーツをはっきり伝えられるので、安心している部分もあるのかも。
まずは親になることに努めます。


子どもが成長してくると、子どもは私の付属物でもなければ、卵子提供した血縁者の付属物でもない第三者であるというのがわかってきて、子どもの人格と私の人格の出会いだということがわかってきて、だんだんとざわめく気持ちはなくなってしまいました。
抱くと温かいとか、髪の毛の臭いがするとか、座ると重いとか、そういう理屈じゃない愛着みたいなものが毎日毎日積み重なって、違和感は払拭されていきます。 今は、我が子がいない人生なんて考えられません。

今から思うと出産はプロセスで、確かにお腹の中で子どもが動くっていうのはおもしろかったけど、そんなに重要じゃなくて、おしっこの臭いがしたりとか、そういうことがとても嬉しいので、しかもそれはほかの子のでも嬉しかったので、出産のプロセスがあったのは、自分にとっては有り難いおまけのような感じです。


海外の家族には、人種が違う養子がいたりして、結婚も神の前で誓った結婚が重要だったり、神の前で誓った親子関係が重要だったりしますよね。
血族を越えた神の概念があるがゆえに、人生の風通しがだいぶよくなっている部分もあるじゃないですか。
海外では、養子縁組のように、神が結びつけてくれた縁でもうひとつ選択肢が増えているのに、日本は「あるところに生まれ落ちた」っていうところから逃げ出す機会が少ないと思います。




points of view 1

ジャーナリストへのインタビュー
 日本の卵子提供のこれから

points of view 2 

コーディネーターへのインタビュー
 ▼ 卵子提供エージェンシー

 ▼ 生殖医療コーディネート会社

points of view 3

卵子提供を受けた方へのインタビュー

points of view 4

DIで産まれた方へのインタビュー
 非配偶者間の提供精子で生まれて

points of view 5

提供者のお話
 オープン・ドナー ダンさんのお話

Lecture

AIDで生まれるということ
 〜加藤英明さんに聞く〜

  Part1 AIDについて考える
  Part2 生まれてくる子どもの権利


卵子提供・代理出産プロジェクト資料室 資料室

卵子提供・代理出産についての日本の制度/海外の制度

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