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『マタニティ・ムーン』第五回
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『人間が生まれるということ』


●先住民族の智恵

初夏の北海道に行ってきた。札幌から日高を抜け、旭川から阿寒湖、釧路へと、ひとりでドライブを楽しんだ。各地で先輩の助産婦を訪ね、昔の話を聞いてまわる旅だ。北海道へ行くとまず、その空気の違いを感じる。「ここは日本じゃない」そう感じられるのだ。とにかく空が広い。なだらかな丘陵がどこまでも広がっていて、ポプラの並木が続く。そんな風景はときとして私には荒涼として感じられ、いつか行った中国のウィグル自治区を思い出させる。そこは日本古来の文化圏ではなく、大陸の空気が漂っているように思うのだ。

今回はそんな北海道に住む先住民、アイヌの聖地と呼ばれる場所の2ケ所でキャンプした。ひとつは日高地方の二風谷という村。そこにはかつてサケがあふれるように上ってきたという美しい沙流川があり、そのほとりでひとりキャンプをした。もうひとつは、阿寒湖の近くのオンネトーという湖。時間帯によって水の色が五色に変わると言われるその小さな湖は、深いコバルトブルーから淡い水色まで、本当に五色の変化を私は数えることができた。
そのそばに、湯の滝という、これもまたそれはそれは美しい滝がある。しかもそこには温泉が湧き出していて、ちゃあんと露天風呂もある。滝の脇を上っていくと、温泉の源泉の近くに、野性の鹿が2頭、薮の中から私を見ているのだった。
大地から水があふれ、湯の煙がたち上る。その光景は、大地そのものに力があるということを強く感じさせる。大地から湯が湧く。地球は生きている。そのことを実感させてくれるのだ。
この湯の滝に行ったのは、実はブラジルのインディオの絵描きであるアユトン・クレナックという人が来日した際に寄ったということを知ったからだった。それを私はビデオで見て、直観的に「行きたい」と思ったのだ。ブラジルという地球の裏側からやってきたインディオが、北海道のアイヌに会いに行く。考えてみれば先住民という共通項をもつ彼らにとって、それは自然な行為なのだけれど、それを聞いたとき私の中で「アイヌ」という言葉が久しぶりにコロコロと心地よい響きを放った。

私がアイヌに出会ったのは、6年前。二風谷に住む、「愛子ばば」と呼ばれる青木愛子さんという産婆に会いにいったことに始まる。彼女はシャーマンにして治療師、そして先祖代々受け継がれた産婆の家系に生まれた。愛子ばばはその2年後に亡くなったので、私は1度しか彼女にあったことはなかったけれど、不思議な力をもった人だった。今回の北海道行きでは、愛子ばばのお墓参りも大切なスケジュールのひとつだ。私は彼女や彼女の甥ごさんから、アイヌのもつプリミティブな精神性を教えてもらった。「木にも水にも川にも山にも精霊がいると、アイヌは信じているのです」と。そして愛子ばばは私の目の前で、なにやらお祈りみたいなしぐさをするのだった。

私はアユトン氏を映像の中で見て、強く引かれるものを感じた。正直に申し上げると、その男は実に私好みでかっこよかった。しかし一番驚いたのは、彼が祈りにも似た行為をしていたことだ。彼は滝の前にたたずみ、目を閉じてその場の気配を感じているように思えた。コメントには「彼は自分たちの友人である水の精霊に祈りをささげた」とあった。自然の中で祈りをささげる男。大きな古い木に手を当てて、さも愛しいとでもいうかのように木の幹を軽く何度も手で叩いていた。
「愛子ばばと同じだ」。私はそう感じた。「本物のインディオだ」。私はなんだかすごくうれしくなって、「北海道に行くなら、この湯の滝を訪れてみよう」と思ったのだった。
で、行ってみると、やはりその場所は大地がエネルギーを放っていた。都市ではもうとっくに感じられなくなった大地や地球の力だ。その自然は私をやさしく包んでくれた。アイヌも、ブラジルの先住民たちも、こうした大きな自然の中に身をおいて、自然に癒されていたのだろう。
大きな自然を感じ、大地や水とともに生きる生活は、都会の生活からは遠く離れてしまった。でも、今こうした先住民たちの智恵を私たちは必要としているのではないかと思う。自然を管理することによって、文明を築きあげ、自然を克服することに喜びを感じてきた文明人だけれど、その管理社会に自分があわなくなってしまっていると感じる人たちがいる。だから田舎暮らしの生活やガーデニングなどが脚光を浴びているのだ。でも、現実的には自然な生活を夢見ていても、仕事の都合を考えると都市生活はやめるにやめられない、そんな人が多いのかもしれない。一方で、あまりに自然とかけ離れてしまったがゆえに、そうした窮屈な思いすら感じなくなってしまっている人もいるように思う。都市は人間と自然との接点を遮断する機能を十分に備えているのだ。
でも、世の中には物やお金では得られないものもある。データにおきかえられない世界はやはり存在する。管理しきれない自然があり、その自然は多くのことを私たちに教えてくれる。それを感じられる人に、私はひかれる。

アユトン氏はインタビューの中で、「都会で生きていきやすい人間は、毎日同じことを繰り返し、それに対して疑問をいだかない人です。今、世界中の子どもたちが暴力的になっているのを大人たちは不安気に見ていますが、あれは子どもたちが管理社会に適応できなくなったその反動なのです」
東京生まれで東京育ちの私が、河口湖の田舎に家を借りて住みだしたのも、都会の管理社会に息苦しさを感じたからだ。都会は経済、科学優先の男性的な価値観に基づいている。のんびり、先を急がず、足元を見ている子どもにはその早さは必要のないものだと思う。都会のリズムは、大人だけでなく、子どもの感じる能力まで、奪いとってしまっているのではないだろうか。



●生まれたばかりの赤ちゃんの表情

北海道に行く直前、都内の大手病院の分娩室に赤ちゃんの写真を撮らせてもらうために取材に入った。友人の助産婦といっしょに二晩連続の夜勤だ。徹夜が苦手は私は、さすがに二晩も夜勤をすると意識が朦朧となってしまった。意識レベルが下がった状態になり、思考が完全にストップする。夜勤をこなす助産婦さんは偉い。本当にご苦労さまです。
あんまり私があくびばかりするので、「助産婦にはなれませんね」とその友人に笑われてしまった。もっともです。私が助産婦という職業を選ばなかったのは、自分自身のことをよくわきまえているからなのだ。物事には分相応というものがある。

さて、二晩に4人の赤ちゃんが生まれた。その病院にしては少ないほうだそうだ。赤ちゃんの写真はいつもそうなのだけれど、撮っているときには夢中でわからなかったことが、現像してコンタクトを見てみると改めていろいろな発見をする。
先日、アメリカのマリーナ・アルズガライという助産婦が私の家に来て、私が撮影した赤ちゃんの写真を見ていた。すると「この赤ちゃんは自宅生まれ。この赤ちゃんは病院生まれでしょう」なんて言うのだ。赤ちゃんの顔を見るとわかると言う。彼女の指した写真は、実際にどれも当たっていたので、またまたびっくりしてしまった。
私もなんとなく、病院で生まれた赤ちゃんと自宅や助産院で生まれた赤ちゃんの表情の違いを感じていた。病院出産にもいろいろあるので一概には言えないけれど、6年ほど前ある地方の病院で撮影をしたあと、現像した写真を見て驚いたことがある。そこには、生まれた直後に恐怖で泣き叫ぶ赤ちゃんが写し出されていたのだ。あとでよくよく考えてみると、そのときの出産は会陰切開をしてから医師が産婦のおなかの上にのってクリステレルをかけて押し出すというものだった。出産直後は、助産婦が母親に見せようと、無影灯にかざすようにして赤ちゃんを持ち上げたので、赤ちゃんは驚いてオギャーオギャーと泣いた。その顔が、あとで現像をしてみるとなんとも恐怖でゆがんでいるように見えるのだ。その病院で生まれた赤ちゃんを何人か撮影したけれど、どれも同じような出産だったせいか、みんな恐怖にゆがんだ表情をしていた。

あるとき、そういう話を講演会でしてみたら、ひとりの年配の助産婦さんが「私はかつて助産院を開業し、10年ほど前から病院勤めをしております。助産院と病院双方で働いてきましたが、どちらであっても生まれたばかりの赤ちゃんの表情が違うとは思えません」と忠告して下さった。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
たぶんその助産婦さんが介助した出産は、病院であっても助産院であっても同じように、薬剤などを使わず、会陰切開もクリステレルもない穏やかな出産だったからなのだろう。要は、出産場所ではなく、出産の中味なのだ。
でも、医療者の方々にこういった言い方は失礼かもしれないけれど、もしかしたら医療者であるがゆえに現場のことが逆に見えにくくなっているということは考えられないだろうか。赤ちゃんが生まれたら、異常がないかどうかチェックし、ほかに診なければならないことがたくさんある。誕生すれば第一呼吸のときに泣くのは当然だし、大きく泣けば元気な証拠。アプガースコアの点数が変わりなければ、表情などあまり気にかけることはないのかもしれない。
確かに私の視点はシロウトの見方にしか過ぎないかもしれない。でも、写真家の目は医療者の視点とは違う。その場の空気や気配を感じようとする。だから、赤ちゃんの表情を見、感じることができるのだ。
どうしてこんなことを言うのかと言えば、生まれたときの表情の違いが写真にはっきり写っているからだ。誕生直後、顔をこわばらせてギャーギャーと泣いている赤ちゃんもいれば、穏やかな表情をしている赤ちゃんもいる。赤ちゃんをすぐ母親の胸に抱かせる場合には、赤ちゃんは下向きの状態で抱かれるので手足をバタバタさせることもないし、抱かれるとだいたいはすぐに泣きやんでしまう。グズグズ鼻を鳴らしていることはあっても、泣き叫ぶようなことはほとんどないと言っていい。

人間は痛かったり、苦しかったり、楽しかったりという感情を表情に表わす生き物だ(もちろんほかの動物も表情に出ているのかもしれないけれど、人間がそれを読みとれないだけかもしれない)。そう考えると、生まれたばかりの赤ちゃんも、程度の差こそあれ、生まれたときの状態で表情が変わっても不思議はないのではないかと思う。これはデータでは表わせないことなので、「証拠もないのに勝手なことを言って」とおしかりを受けるかもしれないけれど、でも写真に写っている赤ちゃんたちを見るとやはりそう思ってしまう。

フランスのル・ボワイエという産科医が、20年ほど前に出版した「暴力なき出産」という本の中で同じような指摘をしている。さらに彼は、赤ちゃんの怯えた顔の表情は、出産そのものに暴力性があるからではないかと指摘している。その本には誕生直後に、恐怖にうち震えて泣く赤ちゃんの写真も掲載されているので、興味のある方はご覧になってください。



●赤ちゃんのもつ力

今回の取材は分娩室の外で行われたので、誕生後10分以上たってからの撮影だったが、薬剤の使用もなく会陰切開もない自然なお産は赤ちゃんの表情も穏やかだった。そんな赤ちゃんたちの写真を現像して見ていたら、またまた興味深いことを発見した。

まず、4人がとてもはっきりした個性をもっているということがわかる。おなかの中から出たばかりのときは、みんな宇宙人のような顔をしているのだけれど、よく見るとからだの大きさや太り方はもちろん、頭の形や髪の毛の量やはえ方などに個性がある。ちっちゃいくせに個性があるなんて、やはり親に似ているということなんだろうか。顔の表情は、目が開いているかいないかでずいぶん違う。私たちは目が開いていると、表情を読みとりやすい習性があるようだ。でも、日本人の場合、目の付近は埴輪のようにぼってりとしているから、西洋人の赤ちゃんより目は開きにくい。
ある開業助産婦が、「生まれたばかりの赤ちゃんの顔は仮面をかぶったみたいに張れているよね」と言った。彼女は、羊水の中にいたことで顔がふやけているのではないかと言う。そう言われて写真を見てみると、どの子もみんなむくんでいる。
目を開いても焦点が定まっていない時期は、なんとなくまだ人間ではないような感じがする。このまま子宮の中にいたんだろうと思わせる。始めの30分ほどは、魂のまだ入っていない、ただの抜け殻のようにも見える。時間がたつにつれて、顔に人間らしさが染み込んでいくのだろう。少しずつ赤ちゃんたちは人間になっていくのだ。

私はどうして生まれたばかりの赤ちゃんが好きなんだろう?と考えてみた。はっきり言って誕生直後の赤ちゃんは、2〜3ケ月児のように赤ちゃん赤ちゃんしていてかわいらしいとは言いがたい。目の焦点が合っていなければ、不気味な生き物のような感じさえある。でも、目がぱっちり開いている子は、なんだか未到のジャングルから今出てきましたといわんばかりのおサルの子どものようなのだ。野性味たっぷりなのである。
どうも私は「野性」というものに弱いところがある。野性の鹿、野性のイルカ、野性的な男。今の社会の中では、野性がどんどん失われ稀少価値になっているから、余計にひかれるのかもしれないけれど、人間も野性なのだと思いたいたちの人間なのだ。

先のアユトン氏は「人間も所詮動物なのです。自然とともに生きる動物たちは地球を破壊しようとは思わない」と言う。人間の中にある野性性は、近代化とともに失われていってしまったのだと悲観的に言う人もいるけれど、私は今の社会の中でただ忘れられてしまっているだけなのだと思いたい。DNAのどこかに、その記憶は残っている。
とは言うものの、これは私のまったくの推測でしか過ぎないのだけれど、最近の赤ちゃんの中には、この野性味があまり感じられない赤ちゃんが出てきているのではないかという危惧がある。それが、不妊治療での受精だったり、薬剤などを使い、出産日をあらかじめ決めたり、出産時間を調整することによってそうした赤ちゃんが生まれると言ったら言い過ぎだろうか。



●誕生と死の環境

生まれたばかりの赤ちゃんは「野性」とは言っても、完成されていない野性だ。そのままひとりでは育たないし、顔すら人間になりきっていない。あやういのだ。それは瀬戸際に立っているぎりぎりの存在感と言えるものかもしれない。確かに生まれた人間ではあるのだけれど、生まれる前の世界をしょっている。それがむくんだ宇宙人のような顔に出ている。「生」の反対の言葉が「死」であるとすれば、生まれたばかりの人間には死の陰がただよう。表と裏の瀬戸際に彼らはいるのだ。

誕生と死はとてもよく似ている。私は直感的にそう感じている。
誕生の場である出産が病院などの施設で行われるのがあたりまえになり、医療に管理されているように、死もまた、ほとんどの人が病院で医療に管理されながら迎えている。死にゆく人々に最後まで薬剤を施し、心停止をくい止めるために心臓マッサージを施すことで、人間の自然死はほとんどなくなっている。そのことで「死」そものもに変化はないのだろうか。
こうした論議は、今の医療の中ではまったく行われる余地はない。なぜなら、死人に口なし。死んだ人に聞いてみることはできないのだから、自然死であろうと管理された死であろうと、「死」そのものにはなんら変わりがないとみなすのが今の医療のあり方だし、現在の先進諸国のものの考え方なのだ。誕生も同じように、赤ちゃんに口なし。どのような誕生のし方であろうと、赤ちゃんは大きくなって自分の誕生のときのことを覚えていないのだから、誕生のあり方は問われることはなかった。
でも、おそらく、誕生のあり方も、死のあり方も、その人はもちろん社会全体にもなんらかの影響を及ぼしているだろうと私は考える。

最後にアユトン氏の言葉。「私たちは子どもたちに『地上にやってくる時には、物音をたてずに鳥のように静かに降りたち、やがて何の跡も残さず空に旅だっていくのだ』と教えます。『人は何かを成すために存在する』という西側哲学は銅像をつくり、人の偉業を記録に残そうとしてきた。だけど、人は何もしないために存在してもいいじゃないかと思うのです。生命を受け、生きていること自体が素晴しいことなのですから」


参考文献/
98年来日記念展パンフレット『アユトン・クレナック絵画展』徳間書店 1998
『鳥のように、川のように--森の哲人 アユトンとの旅』長倉洋海著 徳間書店 1998
写真集『人間が好き--アマゾン先住民からの伝言』写真・文/長倉洋海 福音館書店 1996
『イブの出産、アダムの誕生』きくちさかえ著 農文協 1998
*この原稿は、メディカ出版「ペリネイタルケア」9月号(1999)に掲載されたものです。


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