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育児情報_きくちさかえ育児エッセイ

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きくちさかえの育児エッセイ 3

『I LOVE YOU太』その1
『I LOVE YOU太』その2
 ●やってくれます中学生
 ●鼻ピー息子
 ●昔を思い出して
 ●制服のなぞ

『I LOVE YOU太』その3
 ●離婚
 ●家族
 ●いろいろな家族




『I LOVE YOU太』 その3

ザ・ブルー・ハーツが解散した。ただそれだけのことだ。しかし、ブルー・ハーツファンの遊太にはそのショックはいささか大きかった。
ニュースを聞いた次の日、「頭がフラフラして、3時間目の授業はパスして保健室で寝ていた」と学校から帰ってきた彼は言った。保健室サボリが久々に復活した。まあ、そのくらいショックだったのだろう。ブルー・ハーツでこれくらいなのだから、ビートルズが解散したときには、自殺者が何人か出たとしてもおかしくない。スターというのも辛いよね。
青春というひとつの時代にステージに上り、時が過ぎてステージから降りる。小学校から中学校へ、そして高校へ行くように人はステージを変えながら生きていく。でも、降りた先にはすぐ、また新しいステージが始まっていくのだ。仲がよかった友達も、知らない間に流れていく。住み慣れた街を出ていくみたいに、ひとつの時代が終わり、そして始まる。


離婚
遊太の父と母が離婚したのは、彼が小学校の1年生くらいの頃だったと思う。当然、私がその当事者なのだけれど、正確な時期ははっきり覚えていない。いったいそれが西暦何年だったのか?ということは、私にはたいして重要なことではないんだろう。とにかく覚えていないんだから。
“離婚”という言葉には、それなりにイメージがある。夫婦仲が悪くなって、どちらか一方あるいは双方が荷物をまとめて家を出ていく。子どもがいる場合には、父方か母方についていくために子どももいっしょに荷物をまとめたりすることになるのだろう。
これだけ離婚が日常茶飯事になっている時代におかしな話しなんだけど、離婚というのはまだまだいいイメージからはほど遠い。私自身、それを選択をすることによって、なんだか自分が世間の裏街道を歩んでいくような暗い気分になってしまったこともある。
それはともかく、私たち元夫婦は自分たちの結論として離婚という選択をすることにした。しかし、問題は遊太だ。彼に親が離婚したことをどうやって伝えようか、私たちは一応話し合った。そして得た合意は、遊太に荷物をまとめさせるようなことはしたくない、ということだった。
「そうするためにはどうすればいいのか?」どちらかがひとりで家を出ていく。それしかない。
でも私たちの場合は、互いに遊太を元の家に残して単身で出ていく気にはとうていなれそうになかった。というわけで、離婚してかれこれ8年もたつのに、私たちはまだ3人で同じ屋根の下で暮らしている。 
「離婚とかいって、別姓にするために籍を抜いただけじゃないの〜?」と言う人もいるけれど、残念でした本当に極一般的な離婚です。しかし、世間様にはステレオタイプの離婚感というものがあるらしく、オプション付き離婚というのはなかなか納得してもらえない。
遊太は、その当時、おじさんが離婚しておばさんがどこかへ引っ越していったのを身近で見ていたから“離婚”がどういうものであるのかは漠然とは感じていた。
でも、うちの場合は誰も引っ越さないし、「遊太はおとうさんとおかあさんのどっちが好き? どっちといっしょにくらしたい?」という問いかけもなされなかった。
この図式を人はなんと呼ぶのだろう? おじさんちのケースとは違うのだ。“リコン”?遊太に離婚をどうやって説明すればいいの?「うちの◯◯ちゃんと◯◯ちゃんね、離婚したの」(遊太は小さい頃、父と母のことを名前で呼んでいた)と学校で言ったら「まあ、なんてかわいそうな子でしょうね」とか「大変なのねえ、遊太くんのおうち」とか言われたりするかもしれない。
世間というのは、離婚家庭のうちの子どもや片親のうちの子どもはかわいそうだと思い込んでいるらしい。だから、当の子どもは自分ではそう感じていないのに、周りに言われて「え?ボクちゃんってかわいそうなんだ」と思ってしまうことのほうが多いんじゃないかと思う。
遊太が周りからそんなことを言われて、ぐれた根性の持ち主になってはまずい。これはどうにかしなければ。というわけで。「ガハハハ、とにかく父と母は離婚したのだ」と父と母は幼い遊太に言うことにした。「ガハハ、離婚、リコン!」と遊太は言った。
「うちはほかの家とは違うのだ」と父。「違う、チガウ〜!」と遊太。
「人と違うのは、いいことなのよ」と母はわけのわからないことを言う。
「ウン」と遊太はけなげにも親に洗脳されてしまった。
 その時から「人と違うのはいいことだ」というのが、わが家の一種のスローガンになっている。


家族

家庭にはそれぞれの事情があり、いろいろな家族形態がある。わが家の場合は、ひとりの少年とひとりの中年(あまりそう思いたくないけど)女性とひとりの中年男性が同居していて、そこには息子と母、息子と父という息子を中心にしたV字型の関係が存在している。そこには知らないうちに形作られたルールがあって、さらに夫婦の関係がなくなった分の自由気ままさがある。
同居人はそれぞれに自分の服を洗濯し、庭に洗濯物を干し、スニーカーを洗い、自分の居住空間をそうじする。
離婚が決まったとき、遊太の父親は私に「メシの炊き方と洗濯機の使い方を教えてくれ」と言った。もっともな話だ。それは生きていくうえで必要なことだし、彼はそれまでちゃんとご飯を炊いたこともなければ洗濯機も使ったことがなかったのだから。
「ご飯はこの鍋で炊いて下さい。水加減は・・・。洗濯機はとても簡単です。フタを開け、洗濯物を入れ、洗剤をふり入れて、フタを閉めて、スイッチを押す。それだけ。ねっ?簡単でしょ? 全自動ですから」                   
数ケ月後、私は洗濯機の中に息子とその父親のスニーカーがほうり込まれているのを発見した。
「これだけはやめて欲しい」とノドまで出かかったけど、やっぱり見て見ぬふりをすることにした。それを言ったらスニーカーは私が洗うはめになるか、あるいはわが家のスニーカーは一生洗われないことになるだろう。

初めのうちは一時が万事、そんな調子だったけれど、今はうまくいっている。遊太の朝食は父が作り、週4回のお弁当は父と母が仲よく2回ずつ担当。遊太と私の夕食は私が作り、
父は自分で夕食を作って食べる。私は出張やらなにやらで、年間2ケ月くらい家を開けるんだけど、それでもおしなべると週に3回は3人揃って7時30分には夕食をとっている。これは、都市部における普通の家族の“夕食のだんらん”より頻度が高い。それを考えると、家族ってなんなのだろう?と思ってしまう。


いろいろな家族

先日、フロリダに行ったとき、友人のアメリカ人に家族について聞いてみた。彼女はパロマという助産婦で、14歳と11歳の息子がいる。
「長男は今、別れた前の夫といっしょに住んでいるから、私の家にはたまに遊びに来るの。彼のお父さんは黒人なので、ちょっとね、学校でいじめられているらしいのよ」とパロマは悲しそうな顔をした。  
次男の父親は白人だが、パロマはさらにその男性とも別れ、今はレズビアンになって恋人の女性といっしょに暮らしているという。
父ひとり、母ひとり、子どもひとり。そんなあたりまえのことが、アメリカでは全然あたりまえじゃないのだ。親が離婚して再婚し、ステップ・ファミリーになれば、父2人、母2人、さらにおばさんだかおじさんだかの同性愛者の恋人までついてくることもあるし、きょうだいも増えることになる。子どもも楽じゃないのだ。

日本だって最近は離婚はめずらしくないから、私の周りにもいろいろな家族がいる。ある友人は子どもが生まれてすぐ離婚した。ずっと母子家庭で、娘は父親にほとんど会ったことがないという。その娘が14歳になったとき母親は突然妊娠した。もちろん娘の父親とは別の男性の子どもだ。でも、彼女は結婚するでもなく、またスイス〜イというような調子で母子家庭を選んだ。
もうひとり、子どもを産んでから離婚し、その子を自分の母親に預けて8年間海外に留学している友人もいる。彼女は留学先で再婚し夫婦水いらずで生活している。
私の周りにはそんな友人ばかりだから、「うちって、けっこうマトモだよね」と遊太とふたりで顔を見合わせながらシミジミ話たりしている。
いろいろあるのだ人生は。いろいろな生き方があっていろいろな家族が存在する。「それじゃ子どもがかわいそう」と言う人がいるけど、本当にかわいそうかどうかなんて他人にはわからない。
オウムの子どもたちだって、あんなに一斉に国家権力の名の下に強制保護されたけど、あれが最善の策だとは私には思えない。昔から子どもたちは親の都合やらなにやらで、いろいろな境遇の中で育ってきたのだ。貧乏な子もいれば、裕福な家に生まれる子もいる。カンボジアのポルポト政権下の子どもたちみたいに、悪い大人に洗脳されて戦争にくり出された子もいるし、今でも世界のどこかでは戦争の空の下で食べ物もなく、死の陰に脅かされている子がいる。もちろん子どもたちはみな、幸せになる権利があるし、等しく教育を受けられるように保障されるべきだ。
それでもオウムの子どもたちが一律に全員不幸であったとは誰も決めつけることはできないんじゃないかと思う。とくにあのマスコミの限られた報道だけで、日本人が全員、総評論家になって同じ意見を発するほうがこわい。子どもは義務教育を受けるべし、とはされているけれど、その義務教育にだってゆがみはどんどん露出されてきているんだもん。人を一律にひとつの枠に納めようとする超画一的な考え方は、なんか戦前みたいで背筋がぞっとする。
他人や自分の子どもに対してとやかく偉そうに言う人を見ると、自分自身がそんなに立派に生きているのかいな?と思ってしまう。私なんか、とてもそんなたいそうなこと言えないもん。まず足元を見て、親としての愛と責任をかみしめなくちゃね!



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