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トマトの気持ちさんへ 1 たんぽぽ  -- 2006/06/07 ..
トマトの気持ちさん、こんにちは。

 先日のスレについて、少しお話したくなりました。

 私は、トマトの気持ちさんが大好きです。トマトの気持ちさんを見ていると、本当に、苦しんでいる人、辛い立場にいる人を見過ごせないのだなあと思います。苦しんでいる人を見ると、共感するし、何とかしてあげたくなるのですよね。そういう純粋な親切心を大切にしていただきたいと思います。
 ときどき論争になることがありますが、自分の意見を押し付けるのではなく、まじめに向き合って考えておられるのが、よく分かります。

 しかし、生命に関わることについては、慎重である必要もあるかな、と思うのです。

 トマトの気持ちさんは、日本で子供の臓器移植が認められるべきだと考えているのですよね。今の日本なら法律で禁じられていますから、だれも子供の臓器移植を求めてきませんが、それが認められたら、臓器移植を必要とする子供を救いたいという活動をするのなら、まず自分の子供のドナー登録をしなければいけないと思います。

 なんとなく、できると思うということではなく、脳死なら脳死、心臓死なら心臓死と明確にした上で、きちんと子供のドナー登録をした上で、活動できますか。お父さんの体を傷つけたくなかったトマトの気持ちさんが、子供の体から必要なものを全て、他の苦しむ子供に捧げるということができますか。

 私は、いやです。
 日本人である私には、たとえ死後の世界など信じていないと普段言っていても、どうしても、盲目で臓器を抜き取られたわが子が、一人さびしく三途の川を渡る光景しかうかばないのです。そして、そのような状態で死ぬと、来世において、その失った部分に障害をもつように思ってしまうのです。

 そういう感性をもっている人間にとって、わが子の遺体を、まだ暖かく心臓も動いているのに、苦しんでいる子供に差し出せと勧められることは、耐えられない苦しみです。その苦しみは、移植を受けなければいけない子をもつ親の苦しみに匹敵するものだと思います。わが子が死に直面しているという状況に変わりはないのです。

 トマトの気持ちさん、どうですか。法律で認められたら、本気でお子さんのドナー登録をすることができますか。その場の気持ち次第などというあいまいなものではない覚悟と確信をもって、登録することができますか。考えたくないというままでは、その場になったらできないと思います。親にとって、命の危険にさらされている他のお子さんも可哀そうでしょうが、今まさに死なんとする自分の子供の方が、そして、わが子を失う自分の方が、ずっと可哀そうなのではないでしょうか。それを抑えて決断するには、平素からの明確な信念が必要です。

 臓器移植を推進しようとするのなら、やはりそこは問われると思います。もらえば命が助かるからと、苦しんでいるのだから助けてあげなければならないと、それだけのことでは済まないと思います。

 トマトの気持ちさんは、臓器移植を望み選択したこと自体が戦いであるとおっしゃいます。この医療を推進することが戦いに勝つことだと。
 それは、誰のための戦いなのでしょうか。そして、そのような治療を望まなかった人より、望んだ人は勇気ある人なのでしょうか。

 私は、臓器移植を望む方を非難するつもりは全くありません。特に、子供を失いたくないという親の気持ちは、想像するだけですが、よく理解できます。自分や自分の家族の命が大切であるのは、当然のことでしょう。
 しかし、それを尊い気持ちだとは、特別思いません。当然のことだと理解するだけです。

 子供を助けようとすることだけが愛ではなく、子供には子供の寿命があると受け止めて見守ることも、親の愛です。
 羊水検査で、子供に障害があり、生まれたとしても長くは生きられないだろうと宣告された方がいらっしゃいました。その方は、子供の命は子供のものだからといって、妊娠を継続されましたが、残念なことに死産なさいました。そのご夫婦は、全て子供の生命力に任せることをお決めになっており、延命治療はしないとおっしゃっていました。そして、子供の命が続く限り、見守り続けるとお決めになっておられました。
 このご夫婦は、全てを子供中心に考えておられました。子供が幸せなら自分は辛くてもいいと、その子が、いずれ亡くなることを覚悟の上で出産を希望されました。自分の気持ちは二の次になさっていたのです。
 私は、このご夫婦を尊敬します。その、お子さんへの愛を賞賛します。

 トマトの気持ちさんがおっしゃるように、子供の臓器移植を望まれる方は、子供の命を救いたくて必死になっていらっしゃるのです。その気持ちは痛いほど分かります。自分もいざとなったら、そういう気持ちになるでしょう。
 ただ、それは、それだけでは尊いものだとは思えないのです。ごく普通の人情というものではないでしょうか。

 長くなるので2に続きます。


トマトの気持ちさんへ 感謝をこめて   たんぽぽ
たんぽぽさんへ その9   トマトの気持ち
たんぽぽさんへ、 その8   トマトの気持ち
トマトの気持ちさんへ4   たんぽぽ
トマトの気持ちさんへ3   たんぽぽ
たんぽぽさんへ その7   トマトの気持ち
たんぽぽさんへ その6   トマトの気持ち
たんぽぽさんへ その5   トマトの気持ち
脳死について   たんぽぽ
トマトの気持ちさんへ2   たんぽぽ
トマトの気持ちさんへ1   たんぽぽ
その4   トマトの気持ち
その3   トマトの気持ち
たんぽぽさんへ、 その2   トマトの気持ち
たんぽぽさんへ   トマトの気持ち
障害についての思い   たんぽぽ




 

   >>> トマトの気持ちさんへ 感謝をこめて たんぽぽ   -- 2006/06/07..
 
 トマトの気持ちさん、本当にありがとうございました。

 未久さんには、私たちが論争するのではないかとご心配いただいたようですが、トマトの気持ちさんだからこそ、率直に話をさせていただきました。
 それは、私たちの間では了解済みであったと思います。

 トマトの気持ちさんは、三十代で、本当に生死の境をさまようような経験、身内を看取る経験を何度もされたのですね。
 その経験から、他の方の思いにも共感されるのでしょう。
 まさに、人の苦しみを見ていて、ご自分自身が痛いと感じるような感性で発言されていることが分かります。

 私は、愛する人の死は、父の死しか知りません。

 父は、タイガースがジャイアンツに勝って、ご機嫌で寝床に入り、少し咳き込んでいるからと、母が背中をさすってあげようとしたら、既に息をしなくなっていたという、そんな死に方をしました。おそらくは心筋梗塞でしょう。
 病院では、すっかり死に顔で、耳まで黒ずんでいました。父は自宅が好きだったので、自宅で葬式をあげたのですが、葬式の朝に、「もっと死人らしくなっているだろうなあ。」と思って顔を見たら、顔が赤くなっていて、どうみても一杯飲んで、上機嫌で寝ているようにしか見えませんでした。あれは、いったいなんだったのか。酸素吸入をしていると、そんなこともあると聞きますが、私たちには、あの「上機嫌顔」は、救いでした。耳まで真っ赤で、表情も本当に穏やかだったのです。

 葬式の次の日には、父が行きたがっていたユニバーサル・スタジオ・ジャパンが開園したばかりでしたので、妹の子供たちを連れて義弟と私たち夫婦と、父の遺品のベレー帽を持って出かけました。母は疲れていたので、妹が一緒にお留守番してくれました。

 妹一家が帰るとき、その寸前まで子供たちと追いかけっこなどして遊んでやっていたこともあって、妹が発した言葉が、「あ〜あ、楽しかったね! さあ、帰ろか!」でした。

 その次の瞬間、父の葬式で帰ってきていたことを思い出して、思わずみんなで泣き笑いしてしまいましたが。
 ついでに、なくなったのが4月1日だったので、父の友人に電話しても「嘘でしょう。エイプリルフールでしょう?」と言われたそうです。

 私が知っている、愛する人の死は、それだけです。あれでよかったと思います。あのようでありたいと思います。

 私は、脳死判定がでれば、人工呼吸器ははずします。完全な脳死からは、回復することはないからです。そして、静かに見送ります。家族全員の合意があれば、静かに見送ることはできると思います。
 看取り、喪の過程は、非常に重要であると、私は考えます。

 それにしても、臓器移植法が改正されたら、どうなるのでしょうね。注目していきたいところです。

 トマトの気持ちさん、本当にありがとうございました。
 





   >>> たんぽぽさんへ その9 トマトの気持ち   -- 2006/06/06..
 
たんぽぽさんのご友人はすばらしい方が本当にいっぱいいらっしゃるのですね。
26年!!ボランティアに人生を注げるなんて、なんて凄いことでしょう。
私は、欲の塊のような人間です。
それでも30代にいろんな生と死を経験したことによって、少しはましな人間になれたのかな?と思いたいです。(^^;
少なくとも、命については、私も考えていきたいと思えるようになったのですから。…
たんぽぽさん、また、いろいろとお話、させてくださいね。
わたしは、たんぽぽさんを心から尊敬しています。

>脳死者をそのままにしておくという話ですが、人工呼吸器をはずせば亡くなるのではないでしょうか。
そうです。外せば、人工呼吸器をつけているときよりは短い時間で亡くなります。
でも、そこにも問題は山積みなのです。尊厳死の問題や、本当に苦しまずになくなるのか?という(臓器摘出手術と似ていますが)ことや、では苦しまないように処置をする??安楽死はどうなのか?などなど・・・・。

とても、静かにという心境にはならないと思います。
診断としての脳死を言い渡されたとき、それが本当に脳死なのか?本当に回復しないのか?とやはり同じように、考えてしまうのです。そして、手術室に送り出す決断と同じくらいの苦渋の決断として、人工呼吸器を外すという決断が必要になってくると思うのです。


本当に、この臓器移植という問題を、わたしなりに必死になって考えていくと、その先に、さらに色々な難しい問題が山のように見えてきてしまっています。
尊厳死、安楽死のこと、救命の為の医療、延命の為の医療、そして、更にその先には、おそらく、ネットでタンポポさんも調べられているから、目にとまっているのではないか?と思うのですが、臓器移植なんて本当は野蛮な医療なのかもしれないと考えが動いたとき、では、「新しく作ってしまう」に発想が動いたとしても不思議ではなく、その先に着目されているのが、クローンのことであり、ES細胞のことで・・・・まだまだ実用段階ではないけれど、今は凄い速さで進歩していて、臓器とは行かなくても、人工皮膚(養殖とでもいうのでしょうか・・・)は実用されているのですよね。
私の叔父は、詳しくは聞いていないのですが、「切断してしまった指をお腹に埋め込んで育ててから、接合したそうです!!」今の医療はすごいんだよーと、やった本人が、言っていました。いまだにどんな治療だったのか私には謎です。
まだわたしも、ネットで知る限りのことですら、解らない、知らないことが多いのですが、そういったこと、見え隠れしています。医師のようにスペシャリストとして知識を持たない私達、それでも、少なくとも、関心だけは持っていかないとと、思っています。
このスレットを建てていただいたことで、私も更に自分の気持ちや考えが、漠然としたものからちょっとは整頓されたものに変えることが出来たと思っています。
たんぽぽさん、ありがとうございました。感謝いたします。
 





   >>> たんぽぽさんへ、 その8 トマトの気持ち   -- 2006/06/06..
 
ほんとうに、そうですね。
> 結局、脳死を人の死だと考えられるかどうかが、まず一つのポイントになるのでしょう。
これは、医療技術の発展とともに、変わっていく部分であるように思います。
脳低温療法も、現在では6時間以内に措置を行えなければ、効果が期待できないようですし・・・・

臨死体験は私には自分なりの仮説があります。
何の理論的根拠も無いものですが、似たような体験を自分もし、その時の感覚なのですが、よく走馬灯が回るように過去の出来事が・・・という話があると思います。わたしは、これを何回も経験しています。
主に窒息寸前での出来事なのです。喘息の発作で殆ど呼吸が出来なくなった時に経験しました。
脳の記憶の暴走・・・・そういう表現が合っているのかわかりませんが、ものすごいスピードで過去を追経験して、今に戻るのです。戻れなかったとき、きっと三途の川の景色を見るのかもしれません。
母が亡くなる数日前に、私には三途の川のように聞こえた、話を聞きましたし、義母は過去と未来の(予知)の話までしてくれました。(未来に)目覚めた時を朦朧としていた頃は完全に勘違いをしていました。
その時の言葉の端々は、不思議と合っているのが今となっては謎なのですが。。。。

もし、脳死状態でも、本当は痛みを感じるのであれば、やはりそれは暴挙といえるのではないか?
私も疑問が残っています。脳も人間の体も、難しいことがわからない私には不思議なことがいっぱいあります。
そこまで、解っているのに、なぜ?賛同??!と思われる方もいるかと思います。
私は、その問題を棚上げにして、国外にそのしわ寄せを預けるのはどうかと思ってしまいます。
なのになぜ、募金に賛同したのか?と問われれば、
私の言っている事が矛盾に聞こえるかもしれませんが、たんぽぽさんのおっしゃっている
>ものすごく意地悪な言い方をすれば、国内で移植ができるようになれば、それほどの寄附は集まらないのではないでしょうか。
にまったく、そのとおりだと私はいえます。
国内で出来るようになれば、健康保険の元、こんな莫大な金額がかからず、出来るはずだと思うのです。
国内できちんとした結論の元、きちんとした検証の元、そして国民一人一人のきちんとした理解の元、移植が出来るための門はもう少し開かれてもいいように思います。するしない、ドナーになる、なりたくないは等は、しっかりと現状を把握した上でプライベートな判断なのではないか?と思うのです。その時にドナーがまったく増えないということはないのではないか?と思うのです。
そうなれば、このような募金は、なくなり、待つというチャンスが与えられるのだけなのです。
現状でも15歳以上は待つチャンスはあるではないかと思うかもしれません。
でも、殆どの方は、あんまり見たくなく見ていない、だから臓器移植のいい部分も、問題点もみない、知らない。
この状況で、ドナーになるどんな理由であれ、決断する方や決断する家族は皆無に近いのは当たり前だと思うのです。輸血は普及しているけれど、骨髄移植ですら、まだまだ普及していないのと同じコトだと思うのです。
15以下の子供は、今はその待つというチャンスすら与えられていないのです。

釜ヶ崎のことは、私は良く解っていないですが、国内で移植ができるようになれば、それほどの寄附は集まらないと同じことのように感じます。
路上生活から抜け出そうと思えば、国から・行政から、救済があるはず、ワタシハミナクテイイ、ミタクナイと素通りしてしまっていると思います。
そこで生活をせざるを得ないと、そこで生活をする自由・・・・後者であると思っている人が多いのかもしれません。
 





   >>> トマトの気持ちさんへ4 たんぽぽ   -- 2006/06/04..
 
 3からの続きです。

 脳死者をそのままにしておくという話ですが、人工呼吸器をはずせば亡くなるのではないでしょうか。私なら、そちらを選ぶと思います。

 そして、静かな喪の過程を家族とともに過ごしたいと思います。

 私には、どうしても臓器をパーツだと考えることができないからです。 

 また、臓器移植を受けた側の人も、どれほど延命できるのか、疑問が残ります。脳死者からの臓器提供件数は、総数で172件ですが、現在生存されている方は145名で、すでに27名がなくなっています。数週間、数ヶ月で亡くなっている人も多く、どれほど延命できるのか、という気持ちもあります。

 本当に、そこまでしなければいけないのか、疑問が残ります。

 極寒の冬の夜、いつも思います。今日は何人路上で寝ている人が亡くなるのかと。
 尊敬する友人が日雇い労働者の町、釜ヶ崎でボランティア活動をしています。ボランティアといっても、本当にその活動だけに青春時代からの26年を捧げた方です。
 その方を通して、日雇い労働者の現実を多少は理解することができました。

 釜ヶ崎では、一冬に200人の人が行路死すると言われています。真冬に多くの人が路上で寝れば、厳しい冬の日は死者がでるのは当然のことです。
 私たちは、こともなげに彼らを見過ごします。今晩亡くなるかもしれないのに。
 何故なのでしょうか。
 一人の病に苦しむ子供を救うために何千万何億という寄附が集まるのに、どうして、路上でその夜に亡くなるであろう人には無関心でいられるのでしょうか。暖かい寝床があれば、死ななくて済む人が亡くなることを見過ごせるのは、どうしてなのでしょうか。

 ものすごく意地悪な言い方をすれば、国内で移植ができるようになれば、それほどの寄附は集まらないのではないでしょうか。その家庭でできる範囲の治療しかできないのではないかと思います。国内での臓器移植にどれほどの費用がかかるのか、知りませんが。

 命の尊さということについて、これからも考えていきたいと思います。
 トマトの気持ちさん、誠実なご回答ありがとうございました。心より感謝いたします。
 





   >>> トマトの気持ちさんへ3 たんぽぽ   -- 2006/06/04..
 
 トマトの気持ちさん、ご返信ありがとうございました。

 私が誤解していたところも、きちんと説明していただき、感謝しています。

 結局、脳死を人の死だと考えられるかどうかが、まず一つのポイントになるのでしょう。
 臨死体験なども報告されますよね。知人もいわゆる臨死体験をしたと言っていました。

 古川哲夫という神経内科医は、脳死者は恐怖や痛みを感じるのではないかと言っています。次にコピーします。

「『脳死』・臓器移植に反対する関西市民の会」
脊髄反射でも問題は解決しない
 古川 哲雄:脳死と臓器移植 —脳死患者に本当に意識はないのか?—、神経内科、54(6)、529−533、2001
【要旨】
1. 両側大脳半球を除去した動物から自発行動は無くなるが、強い不快な刺激を与えると覚醒する。これら除脳動物にみられる共通の症状は、インプットは保たれているが、アウトプットは極度に障害されているということである。≪無意識的・受動的な感覚≫と、≪意識的・能動的な感覚、知覚≫は区別しなければならない。後者は大脳半球によって起されるのに対し、前者は間脳、中脳、橋、延髄、脊髄に依存している。
2. 頭皮上脳波が平坦でも、脳室内あるいは鼻腔からの誘導では活発な活動電位が見られる例がしられている。さらに臓器摘出のために皮膚に切開を入れると同時に、血圧の上昇、頻脈の出現することは1985年 Wetzelの報告以来、よく知られた事実である。このような現象は、脳の一部に機能が残っていなければ起こりえない。
3. 意識は大脳皮質のみで感じているという根拠は無い。高次の中枢が障害されれば、それより下位の中枢が働く。皮質下中枢、脳幹、さらに脊髄にも中枢がある。客観性、再現性、普遍性を金科玉条とする現代科学は、≪意識≫を扱えない。
4. 米国では脳死やそれに近い患者からの臓器摘出に、モルヒネを使うようになった。脳死患者の種々の体動は反射とされているが、脊髄反射を抑えるためならば筋弛緩剤を用いれば十分であるのに、なぜモルヒネを使わねばならないのか。人に言えぬ不快感を感じて移植手術から手を引いた外科医や、脳死と判定することを嫌がり、脳死判定を遅らせる傾向もあるのはなぜか。実際に救急部で医師はこのような経験をしている。手術台上に起き上がる脳死患者もいるのである(会田 薫子私信)。これが脊髄反射であろうか。(注:手術台上に起き上がる脳死患者については、上記以上の記述は「神経内科」誌上にはない)
5. 麻酔をかけるだけでは解決しない問題である。脳死と診断された患者に100%意識が無いとは言えない、と考える神経内科医はいる。前述の除脳動物ではインプットは入ってもアウトプットができない状態であり、脳死患者もこれに近い状態にある可能性を筆者は考えている。
6. 果たして脳死という診断が可能かという疑問を出す研究者もいるが、移植が優先される現在ではあまり問題にされない。「脳が無いからといって意識もないとするのは、胃が無いから食物が摂れない、と考えるに劣らず愚かしいことである」といったのは1907年Henri Bergsonであるが、この言葉には今改めて深く考えさせるものがある。現在脳死は、臓器移植の必要に迫られて無理に設定されているとの批判を免れない。意識がある状態で臓器を取り出しているとすれば、われわれは恐ろしい罪を犯していることになる。われわれは進歩の名において、取り返しのつかない罪を犯しているのではないか?
7. 移植臓器の不足から、脳死以外に心臓死5分後(施設によっては2分後)に臓器摘出が行われる例が増えてきており、このような場合は患者は本当に痛みを感じていないのかとの強い疑問も出されている。

 私は、古川氏の「果たして脳死という診断が可能かという疑問を出す研究者もいる・・・・・・現在脳死は、臓器移植の必要に迫られて無理に設定されているとの批判を免れない」との指摘に同感する。
 意識の発生に、間脳の視床下部が重要な働きをしていることが知られている。古川氏の「脳死患者に本当に意識はないのか」仮説を検討するには、正確に脳死と判定された患者の視床下部、さらに下位中枢の脊髄を解剖した生田氏の研究「脳死」例の剖検所見が参考になる。

 





   >>> たんぽぽさんへ その7 トマトの気持ち   -- 2006/06/03..
 
続きです。
しかし、私には想像できます。
その状態ですら、すでに、自分の知っている我が子ではすでにありません。…。
仮に急変がほんの数日で起こり、脳死にいきついたとします。
それですら、おそらく人工呼吸器をつけ、すでに表情は死顔のように変わり果てています。目が開いた状態であるかもしれません。その瞳は何も写す事の無いうつろなものに変わり果てているはずです。
この状態が長く続くと、今度はどんなに頑張っても、体のこわばりは出てきます。さらに、管理をしっかりしていても体力は落ちてくるので、壊疽などが出来始めることも多いと思います。体はどんどん痩せ細っていくはずです。
呼吸して、体温があり、生きている状態で、屍にどんどん変化するようなものです。
まるで、呼吸させ、生きている状態でミイラを作るような感覚に襲われると思います。。。
または、壊疽した部分を切断しないと、そこから敗血症などを引き起こし心臓死へのきっかけになったり、そういうことがなくとも、弱いどこにでもいるような細菌で急変し肉体の死をむかえることになることも想像は難しくありません。
救命医療の末、その後は延命治療になってしまうのです。
長引けば長引くほど、その延命治療を止める決断を家族は必ず迫られます。
その選択と、ドナーとして提供する選択と、どちらにするのか?という選択が、待ち構えているということになると思うのです。それが出来なかったとしても上記のような死の形が待ち構えていると私は考えています。
医学的にそれは思い込みだよ?実際はこうだよ。というものがあるのならば、教えて欲しいと思っています。

 





   >>> たんぽぽさんへ その6 トマトの気持ち   -- 2006/06/03..
 
その5の続きです

植物状態の時、深昏睡などもそうですが、肉体の状態が安定から不安定に変化することも、さらにいい状態に変化することもあり、脳も更に深刻な状態→脳死の場合と、回復→死んでしまった部分は回復はしないけれど、他の部分でそれを補うことは可能する場合、そのままの現状維持の状態があると、私は思っています。
たんぽぽさんも、脳死からすぐに完全な死へ向かわないケースを記していますよね?
私も、その論文を全文読んでいます。

ただ、タンポポさんがおっしゃっている通り、
>怖いことですが、ドナーカードを持っている人が救急で運ばれれば、治療よりもドナー管理という視点から医療行為が行われる可能性があるということです。

この部分が、わたしも今の日本ではありえるのではないか?と思っているのです。
きちんとした救命医療の末、結果脳死を迎えた、でなければならない。
ドナーカードを持っているが故に、ドナー提供できる状態の管理に救命医療をすりかえられてしまうことは無いのか?と。
実際、ちょっとネットを見れば、これを疑わないわけにはいかないのです。
私も、その部分は結構、見ていて、ブックマークにも収まっています。
だから、問題だと思っているのです。
きちんとしたシステムとその厳粛な運用は、おそらくそれに携わる医師ひとりひとりにかかってきている・・・・・。その信頼がなければ、成り立たないシステムであるはずです。
現状では自分のドナー提供しても良いという気持ちと裏腹に私は信頼できません。

たんぽぽさん、私は知人ではなく、義母で似た体験をしているのです。
脳死または脳死に近い状態とは診断されてはいませんが、3ヶ月以上意識はなく、植物状態にみえ、医師たちは深昏睡状態だと診断、何度も脳波の検査をしています。
昏睡の原因は不明。肉体的には安定をしていました。危篤状態であったとき、瞳孔の反射もなく、目は見開かれたまま死んだような目をしていましたし、自発呼吸も出来ない時もありました。そして、一番状態の悪いときは親族を集めるように指示され、あと数時間でなくなると断言されるところまで行っています。
その死の淵から、生還(ただし、寝たきり状態ですが…。そして、その部分でわたしは、また違う色々な思いがあります)しました。
経験しているからこその思いがそこにはあります。

回復されたお知り合いは本当に良かったですね。
でも、その時に脳死もしくは脳死寸前と判定されたとき、もし、完全な脳死に落ち着いてしまったら、ドナーになることは可能ですか?との問いだったのではないでしょうか?
ドナーになることを断ったから、救命医療を受けられたという印象をもってしまいますが、
本来なら、そうではなく、そのなる、ならないの返事とは無関係に、救命医療をされるべきはずなのですが、、、、。そこが日本の現状として本当に怖いところだと思えます。

>脳死段階で、自分の子供の臓器を提供するとなると、意識はないけれど心臓も動き、呼吸もしている子供に、〜(中省略)〜ここにハードルがあるでしょう。 家族が脳死であることを認め、臓器提供を承諾すると、〜(中省略)〜普通の人に耐えられることでしょうか。

と、たんぽぽさんは言われていますが、おっしゃるとおり、まず、脳死判定を信じることが出来るかに、まさにポイントはあります。
それが信じられる状態であると仮定した上での話になりますが、確かにまだ、心臓が動き、体温が残っている我が子ではあります。

その7へ続きます。
 





   >>> たんぽぽさんへ その5 トマトの気持ち   -- 2006/06/03..
 
たんぽぽさん、すばやいレスをありがとうございます。

まず、三途の川の件、了解です。心象風景ということで、了承しました。
そして、死んでまで、傷つけられたくないというお気持ち、それも私にはわかります。
とっさであれ、私もそういう判断を父と義父にはしているのですから。
それがごくごく普通の反応だと私も思っています。
ならば、なんで生きている子をその状態で死者にするために、傷つけられるの??!!という事になるんだと思います。
それは、これの前の私のレスのとおりの気持ちから・・・・となってしまい、堂堂巡りになってしまうので、そこは、いったんおいておかさせていただいた上で、もう少し、話を進めさせてください。

>それで、トマトの気持ちさんにお尋ねしたいのですが、もしかして、脳死と判定された状態と植物状態を混同していらっしゃいませんか。
との事ですが、たぶん、混同していないと思うのですが…

私は確かに、もし子が植物状態になったら耐えられない、きっと罪を犯してしまうと書いています。そして、脳死状態でドナーとしての脳死が決定したら、ドナー提供するということも書きました。その中で、表現が混同しているように見えたのかもしれませんが、植物状態ですら耐えられず(耐える自信がなく)、ましてや脳死の状態になってしまったのなら、なおさらで、確実に死に向かうのであれば、ほんの一部分の生存かもしれないけれど、そのための苦痛は伴うことも承知の上でドナー提供したいと思っている。それは、たんぽぽさんのおっしゃるような尊敬されるような気持ちではなく、むしろ自分の気持ちの救済に近いと言う意味で書いたつもりなのですが…。

脳死とは、大脳、小脳、脳幹等の脳の全てが機能していない状態(脳波の無いフラットな状態)を示していると私は思っています。

植物状態とは、脳の一部(それが、大脳か小脳か、脳幹ってことはあまりないかもしれませんが…)が死んでしまって、死んでしまった場所によって色々と形はあると思いますが、生きている最低限の反応があり、脳波もフラットではなく、それでも自発的に何も出来ない状態だと思っています。ひょっとしたら、色々な思いとか夢を見ている等はあると思います。それを表に出せない状態であると理解しているつもりで居ます。。

>脳死判定というのは、その急変につぐ急変で危篤状態にあるときになされるもののはずです。
ここが、私の認識と違うところだと思います。
脳死判定が出来る基準ってやつが今の法律の中でも、とりあえずあります。
打つ手がもうなく、何も出来ない状態で、それでも、肉体的には管理が成功していて人工的に呼吸を管理し、落ち着いた状態とでも言うのでしょうか…。
見ため的には人工呼吸器をつけ、すやすやと寝ているような状態。
見た目的にはあまり植物状態と変わりは無いかもしれないです。
植物状態と診断されても、人工呼吸器をつけている場合もあると思うので。
診断に間違いの無いドナーになりえるとすれば、そういう状態になって、2回の脳死判定の間があるので、すくなくとも、数時間〜数日は落ち着いた状態を示しているはずです。
急変につぐ急変で次々と対策をとっている状態ではなく、どちらの状態(脳死、植物状態)で落ち着いたとしても、すくなくとも一呼吸おく時間があると思うのです。
少なくとも、刻々と状態が変化し、死亡するという感じではなく、脳死といわれたら→完全な死へ向かうのは、徐々に変化をする状態(これをブレーキのかかった状態と私は表現したつもりです)であると思います。
現状でも、5,6時間で脳死→完全な死へ向かうのであれば、その間にドナーになる為の脳死判定は出来ないシステムだと思っています。それをごり押ししてやりさらにドナーとして摘出までし・・・というのは無謀なことで、そういうことが起こっているということも認識していますし、それに対して、本当にそれで脳死なのか?と疑いをもち、判定の仕方にも疑いをもっています。

その6へ続きます

 





   >>> 脳死について たんぽぽ   -- 2006/06/02..
 
 脳死段階で呼吸していると書いたのは間違いです。訂正させていただきます。

 脳死の定義と問題点を、上村芳郎という学者の「村のホームページ」の生命倫理についての「脳死と臓器移植」という項目からコピーいたします。


1 脳死とは何か? 

脳死の定義—「脳幹を含む脳全体の機能の不可逆的な停止」
(臓器移植法 第六条「『脳死した者の身体』とは、…脳幹を含む全能の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されるものの身体をいう。」)

A)脳死と心臓死
 「死」の伝統的な定義は、「心臓死」であった。(心臓、肺、脳の停止を確認する「三点死」である。)
 心臓が止まれば、やがて脳も死ぬ。(逆に脳が死ねば心臓も止まる。)
 「脳死」とは、生命維持装置によって人工的に心臓や肺は動いている(=体は生きている)が、脳機能が停止した状態を言う。
  ←心臓や肺や肝臓は、心臓停止後では、移植できない。

B)大脳死と全脳死
 脳幹(中脳+橋+延髄)=生命維持の機能
 大脳が「死に」、脳幹が生きている状態が、大脳死(=植物状態)≠脳死
 その逆が脳幹死。(イギリスでは、脳幹死=脳死、と定義する。)
 大脳と脳幹の両方(=全脳)が機能を停止した状態が、全脳死。(多くの国で、これが脳死の定義として採用されている。)

C)判定基準;竹内基準(厚生省基準)
1 深昏睡
2 瞳孔拡大
3 脳幹反射の消失(対光反射、角膜反射など)
4 平坦脳波
5 自発呼吸の消失
6 時間経過(6時間)
 他に、聴性脳幹反応や脳血流停止の確認を加えることもある。
(1と4が大脳死を、2と3と5が脳幹死を、6が不可逆性を、チェックしている。)

2 問題点

「脳死」が死の定義としてふさわしいか、また現在の判定基準が正当か、という二点で考えるべき問題がある。

A 脳死という概念は、臓器移植を可能にするために作られたものである。臓器移植をしないなら、脳死判定する必要はない。
  臓器移植に都合がいいように、死の定義を変えていいのか?
  「死」という事実は、個人にとって、絶対的なものではないのか?

B 「脳死から蘇った人はいない」といわれるが、《助からない=死》か?
1) 死は一連の連続した状態、《死につつある≠死んでいる》
2) 竹内基準は「これ以上治療しても助からない」という延命措置を停止する限界点を(=蘇生限界点)示している。
3) 蘇生限界点は技術の進歩によって変わる。
   →林成之医師の低体温療法
4) 臓器摘出が可能な死の時点≠蘇生限界点
  (以上は、主として、立花隆が展開した論点。立花は、厳密な死の定義を求めて、「機能死」から「器質死」へと踏み込むことを主張した。)


 





   >>> トマトの気持ちさんへ2 たんぽぽ   -- 2006/06/02..
 
 1からの続きです。

 脳死と植物状態の違いを、「岡山県臓器バンクネット」のホームページの「脳死と植物状態について」から引用します。


世界の殆どの国で「脳死は人の死」とされ、脳死下での心臓、肝臓、肺、腎臓などの移植が日常の医療として確立されています。しかし、日本の臓器移植法では、臓器を提供する意思がある場合に限って「脳死を人の死」としています。人の脳は大脳、小脳、脳幹(中脳、橋、延髄)からなっています。このうち、どの部分が障害を受け、機能を失っているかで、全脳死、脳幹死、植物状態とに分かれます。

脳死には、大脳と小脳さらに脳幹がすべて障害を受けて機能しなくなった「全脳死」と脳幹が機能を失った「脳幹死」があります。脳幹死の場合は大脳はまだ機能は失っていないが、やがて大脳も機能を失い全脳死に至ります。
植物状態とは、大脳の機能の一部又は全部を失って意識がない状態ですが、脳幹や小脳は機能が残っていて自発呼吸ができることが多く、まれに回復することもあり脳死とは根本的に違うものです。


 植物状態からは回復することがあり、意識を取り戻した人によると、周囲から見て「植物」のようであっても、実は何でも分かっていたということがあるようです。
 自分の周りで語られていたこと、誰が何をしてくれたかなど全て覚えている人がいるそうです。

 植物状態の人の脳は完全に死んでいる訳ではありませんから、臓器を提供することはできないはずです。
 脳死と判定されても十年以上生きたという例はありますが、普通は脳死状態になれば、数時間以内に心臓も停止します。

 脳死段階で、自分の子供の臓器を提供するとなると、意識はないけれど心臓も動き、呼吸もしている子供に、脳死だという判定が下されることになるでしょう。まず、それを信じることができるかどうか、ここにハードルがあるでしょう。
 家族が脳死であることを認め、臓器提供を承諾すると、まだ心臓も動いていて体の温かいわが子が、手術室に運ばれます。そして、手術室から帰ってきたときには、体に傷が付けられ臓器が抜き取られています。わが子は、完全に死体となって帰ってきます。

 脳死段階で子供の臓器を提供するということは、こういうことであるはずです。どうでしょうか。普通の人に耐えられることでしょうか。

 それを耐えて、その現実を見つめて、それでも自分の子供の命を、たとえ数時間であっても縮めてでも、苦しむ他者、苦しんでいる見知らぬ子供を救おうとする人がいます。その信念がどこからくるのか、私には分かりません。しかし、おそらく、特定の宗教ではないとしても、強い宗教的信念がなければできないことのように思います。
 私は、そういう人を尊敬いたします。たしかに、脳死と判定されれば、自分の子供はあと数時間しか生きられないでしょう。その数時間をとらずに、他人のお子さんに命をプレゼントすることができる親は、すごい人です。おそらく、子供もそれを望むはずだと信じられるひとでなければ、できないでしょう。

 トマトの気持ちさん、どうでしょうか。脳死による臓器提供とは、このようなものではないのでしょうか。私が事実を誤って捉えているのなら、教えてください。

 ドナーカードをもっていれば、臓器の状態が良ければ、脳死判定がくだされるずっと前から、治療がおろそかになりドナー管理される可能性も否定できません。それでも、お子さんのドナー登録をすることができるでしょうか。

 脳死による臓器提供の意志を示すとは、そういうことではないのでしょうか。どなたか教えてください。
 





   >>> トマトの気持ちさんへ1 たんぽぽ   -- 2006/06/02..
 
 トマトの気持ちさん、ご返信ありがとうございます。

 まず、三途の川の光景については、日本人としての単なる心象風景だとお考えください。未久さんもおっしゃっていますが、そういう心象風景があるというだけのことです。

 もう少し、現実的にいえば、たとえ死んでいることが分かっていても、遺体にも痛い思いはさせたくないのです。傷つけたくないのです。治療のための傷でもかわいそうですが、死んでまで傷つけたくないというのが本心です。痛かろうと思いやってしまうのです。

 それで、トマトの気持ちさんにお尋ねしたいのですが、もしかして、脳死と判定された状態と植物状態を混同していらっしゃいませんか。


臓器移植のドナーになるならないなど考える暇も無い、急変につぐ急変で危篤状態に肉親がなり、そして手を尽くした上で、死へ向かうスピードにブレーキをかけるのが精一杯だった、それが、脳死という状態であったというところあれば。。。。
一呼吸おき、このままでは完全な死をそっと受け入れるしかないとき、肉体の一部が生きていてくれるという事を糧に出来るのではないか?と、初めて提案を受けたとしたら、完全な死を受け入れるまでの執行猶予を悲しみに暮れ、名残など尽きるわけがなく、過ごさねばならないいつ終わるかも解らない苦しみの中に居る時に言われたとしたら、私はドナー提供の提案を受け、それを希望に変える選択をすると思うのです。

 と、書いていらっしゃいますが、脳死判定というのは、その急変につぐ急変で危篤状態にあるときになされるもののはずです。
 ほっておくと心臓死してしまい、臓器が使い物にならなくなるので、「もう脳死しているので、他の人の役に立ててください。心臓は動いていても、もうなくなっているのですよ。」と説得されるはずです。
 そして、ここで怖いのは、患者の蘇生の可能性よりも、臓器の鮮度や状態のよさのほうが重視される可能性があるということです。

 怖いことですが、ドナーカードを持っている人が救急で運ばれれば、治療よりもドナー管理という視点から医療行為が行われる可能性があるということです。
 このことについては、「トマトの気持ちさんへ2」の方に情報源を明らかにして記載していますのでチェックしてみてください。
 これらのことは、インターネットで調べただけのことですので、情報の精度については確認をしていませんが、情報源は明らかにしていますので、それを調べることはできるでしょう。

 普通、心臓死は脳死の数時間後には訪れるものだそうです。放っておけば自然に死ぬのです。

 脳死も心臓死も不可逆的な死だと、コラムには書いてありましたが、そうでしょうか。心臓が止まっても蘇生術によって蘇生しますよね。それも、心臓が止まった直後なら、蘇生する確率は低くはないのでしょうか。

 脳死は、そうではないのでしょうか。いったん脳死と判定されても、治療によって蘇生する可能性はないのでしょうか。

 知人は、脳死、もしくは脳死寸前と判定されて、ご家族は彼女の臓器を提供するように求められましたが、それを断って治療を続けた結果、蘇生しましたよ。
 しばらく家事ができなかったとか家族に世話してもらったとか言っていましたが、精神にも肉体にもはっきりと分かるような後遺症などありませんでしたよ。本人としたら疲れやすくなったとか思っていたでしょうが、その程度です。自分で歩いてどこにでも行き、研究活動を続けていましたよ。

 もちろん、脳死と判定された人の多くは数時間後に心臓死を迎えるのでしょうが、脳低温療法などの治療によって蘇生する人も増えているようです。

 臓器移植をしたいという意図があって、脳死判定がなされる場合は、「脳は死んでいるから死人である。しかし、体や臓器は生きているから苦しんでいる人に提供しましょう。」と説得されるはずです。

 しかし、脳死の基準というものは一つではなく、一つの基準で脳死と判定されても、それは脳死寸前かもしれず、蘇生する可能性は、少なくともゼロではないと思います。少なくとも、体はまだ生きているのです。心臓は元気に動いているのです。

 次に続きます。

 

 

 





   >>> その4 トマトの気持ち   -- 2006/06/01..
 
では、脳死とは何か?といえば、私の理解する範囲ですが、大脳・小脳・脳幹が全て死滅している状態であるはずです。
生きている>脳死>完全な死であって、まさに完全な死未満な状態ですよね。
体は生きている、でも、これは脳全てが死んでいるのなら、おそらく、呼吸することも本来は出来ていない状態のはずだと思います。それを指示する機能が失われているわけですから…。
医療器械に生かされている姿なのではないでしょうか?

また、そんな状態でバランスが取れてしまったとき、司令塔がなくとも、体は各器官が連携を取りその状態を維持もしくはイイ方向へ持っていこうとするという話を読んだことがあります。見た目はきっと、脳死をしていない眠りつづけている、昏睡状態の時と、もしくは植物状態?の時と、きっと変わりが無いのだろうと思います。
それを何十日、何ヶ月と見ていれば、奇跡を信じたくなる自分と、死にきることもさせて上げられない自分に私は格闘し、きっと壊れてしまうと思います。
おそらく、私はそれが我が子に起こったなら、犯罪を犯してしまうか・・・いっしょに、死のう・・・・と思うか、耐え切れずに先に死後の世界に行って、我が子を迎えようとしそうです。ほかの方を助ける、人のためになんていうよりは、私と我が子の救済のためにドナーになることを選択しそうです。

そもそも、脳死なんて状態が起こることは、そうそう有ることではないと思いたいです。
心と体と脳と一緒に普通に終焉を静かに迎える。
私はそんな死を出来るなら得たいものだと願っています。
もし、延命治療につぐ延命治療の末、そんな状態になったのならば、それが悲しいことだと思います。脳死に落ち着くことを目標に、臓器を目的にそんな治療はあってはならないように感じます。難しいところだとは思うのですが、救命医療の末の結果、そうなってしまった、で有るべきだと思います。

>子供を助けようとすることだけが愛ではなく、子供には子供の寿命があると受け止めて見守ることも、親の愛です。
わたしは、この例に出てくるご夫婦ほど、強くは無いのでしょう。
きっと同じような状態で出産したとしたら、そして死産ではなくそれを迎えたとしたら、
1日でも長くその子の成長を見たいと願い、その子が笑えば、その笑顔を1日でも長く見たいと願ってしまうと思います。その延長に移植があれば、すがります。
寿命と受けとめきれないと思えるのです。
それと同時に、上記に記したように救命医療の末、その子が脳死を迎えたら、静かにその時を待てるのか?と問われれば、おそらく自分と我が子の救済のためにドナーになることを選ぶとおもえるのです。
私はきっと弱いのです。自分の気持ちは二の次には出来ません。
 





   >>> その3 トマトの気持ち   -- 2006/06/01..
 
 もし、新しい法案が出来、個人の意思決定を重視し、脳死の判定も信頼が置ける状態で、ドナーになるに丸をすれば、提供できる臓器はラインに乗って移植者へ速やかに届くようになったとします。
その仮定がある上でですが、ドナーになる意思表示に、案外あっさりと提供するに丸を私はつけます。

そして、子の場合、親の意思によるところで、それが行われたとします。そして家族の場合、本人の意思により、それが行われたとします。その時のことを何度も何度も想像しました。
これが、とっても心に痛い出来事です。本当に心臓がパンクしそうな状態です。考えたくない事のおそらくNo1と言っても過言ではないでしょう。。。。

たんぽぽさんは、私は、いやです。とはっきりとおっしゃる。
それ、とっても普通の感覚だという事もいやというくらいわかります。

ただ、死後の三途の川を渡るときのお話は、私にはそう思えませんでした。
実際、義母は片足を切断後、旅立っていますし、母も子宮、卵巣、リンパ、そして小腸も大腸も最後は殆ど残っていない状態でしたし、義父は肺動脈を固める手術の折、脾臓摘出していますし、わたしも卵巣と盲腸もすでに体の中にありません。…。これが、目であっても、心臓であっても、他の臓器であっても、ごっそり抜け落ちていたとしても、もし、来世があるのなら、きっと大丈夫と思えてしまいます。ましてや、もし、自分の臓器が他の体で生きているとしたら、もし、心が魂となって現世を見れるとしたら、私なら、嬉しいと思えるのです。喜んでいる方がいるのなら、死後の自分は嬉しいはずと思えるのです。

臓器移植を考えるとき、やはり脳死のことははずせない大問題だと私は思います。

実はドナー側の親族にも心臓死→移植(もしくは生体間移植)を受ける側の親族にもなりえたかもしれないという経験が私にはありました。
私は、義父、父のことをこの前のスレットで書きましたが、それは、深く考えていないとっさの時の自分を書いたつもりです。
そして、たんぽぽさんがおっしゃるとおり、(考えたくないというままでは、その場になったらできないと思います)だと、私もそう思います。
とっさに、NOを言うのは、凄く簡単で、そして、誰もそのことを責められるべきものでもないし、至極当たり前の事として誰もが思うのが普通だと思うのです。

ただ、ちがう視点で考えることはできます。

臓器移植のドナーになるならないなど考える暇も無い、急変につぐ急変で危篤状態に肉親がなり、そして手を尽くした上で、死へ向かうスピードにブレーキをかけるのが精一杯だった、それが、脳死という状態であったというところあれば。。。。
一呼吸おき、このままでは完全な死をそっと受け入れるしかないとき、肉体の一部が生きていてくれるという事を糧に出来るのではないか?と、初めて提案を受けたとしたら、完全な死を受け入れるまでの執行猶予を悲しみに暮れ、名残など尽きるわけがなく、過ごさねばならないいつ終わるかも解らない苦しみの中に居る時に言われたとしたら、私はドナー提供の提案を受け、それを希望に変える選択をすると思うのです。
それは、急変に告ぐ急変で危篤状態になり、これを抜け出す手立ては臓器移植しかないと告げられ、それをしなければ、死を待つだけの時間になると宣告されたら、私は臓器移植を模索し、藁にすがるという思いと、同じところからきていると思えるのです。

この同じところからきていると思える気持ちは、想像ではなく、実体験からきているのです。脳死からすぐに心臓死へ移行するような形の死では、おそらく臓器移植うんぬんの前に、オロオロする時間の経過の中、ただ、死があるだけで、その提案すら出来ないのではないか?と思うのです。

文章にまとめるのが、自分で四苦八苦しています。
 





   >>> たんぽぽさんへ、 その2 トマトの気持ち   -- 2006/05/31..
 
続きです

なんだ?トマトはまだドナー登録してないんじゃないか!!と声を頂いてしまいそうですが、実は今のドナー登録、実際のところ、無意味に感じてしまうのと、日本の脳死判定に対する信頼を私はまだ持っていないのです。それで、何度か手にとったことは有るのですが、記入したものは、今は持ち合わせていません。

今の日本のドナーカードは「臓器意思表示カード」ですよね?
でも、仮にこれに+αで切々と臓器を提供したいと訴えたとしても、家族の反対があれば、されることは100%無い…。

仮に、自分の場合、生前である今、何度となく話し合ったとしても(実際、何回か話題になって、その時は本当に軽い口調でドナーになるべきだよなぁって話にはなるのですがおそらく、相棒はこういう状況になるというシュミレーションまでは想像できないと思います)、その時に同意を得ていたとしても、いざその時は、おそらく、NOを言ってしまうだろう相棒の存在を私は感じています。

子については、話し合う機会すら得られずに居る状態です。
いずれきちんと話し合わねばと思っています。
今回の見直し案がもう少し具体的に法案として動き始める頃、それを一つのチャンスと捕らえて、話し合いたいと思っています。
私の子であると同時に彼の子でもあるわけです。

これが、USAだと、サリー紫 さんがおっしゃるように、いとも簡単に済ませてしまっているんですよね?
そして、個人の意思が尊重される。。。。

丸はどのくらい深く考え、どのくらいの想いでつけたものか?を問われないがために、逆に、本当にこれでいいの??という疑問が湧きあがってきつつある?のかもしれません。
あまり知らされていない事実も見え始めているという感じなのではないでしょうか??
臓器提供者が多いのには、日本が極端に少ないのと対極にあるシステムのように、感じています。
だから、言葉では簡単になってしまいますが、きちっとしたシステムが欲しいと思っているのです。

また、移植を待つ人数に追いつくような提供者数を確保するという考えには私はなりません。
ドナーの数が足りない、それでいいと思うのです。

うまくいえませんが、こういう機会を得たり、わが身に置き換えたり(すごく勇気がいる事だと思いますが。)して、しっかりと見つめた上で、それぞれがどう意思決定をするかをするチャンスをつくれないものか?と感じています。
例えば、免許更新の時に、きちんと自分の死生観と向き合えるような講習を義務付けるとか…、何か、手立ては無いのでしょうか???

子の移植については両親の考えになる場合と、意思表示が出来る年齢であれば、本人の意思が尊重されるべき、になってしまいますが、少なくとも、大人の個人の意思は尊重されるべきなのではないか?と思うのです。
 





   >>> たんぽぽさんへ トマトの気持ち   -- 2006/05/31..
 
たんぽぽさん、そして皆さん。こんにちは。

少々私用が建てこんでいて、見るタイミングが遅くなってしまい、ごめんなさい。

たんぽぽさん、いつも聡明できちんとしたスタンスの元、優しく暖かい言葉の数々、ありがとうございます。わたしもたんぽぽさんが大好きです。そして、長文のメール本当に、ありがとうございます。

私も命にかかわることについては、慎重で有るべきだと思っています。正直に言いますと、この前のスレットを立てるまで、いろいろと情報は手にしていたのですが、では自分はどうなのか?というところ、漠然とは思うところはありつつも、ここまで明確に自分はこう思っていると確認したくなかった、という気持ちがありました。
たくさんの方の真剣な問いに私はどうだろうと、勇気を持ってきちんと向き合ってレスをつけたつもりでいます。
その中で輪郭だけかもしれませんが、自分の気持ちに気付かせていただけたと思っています。

私は、日本でも基本的には子供の臓器移植を認めるべきだと思っています。もう少し正確に言葉を選ぶとすれば、日本でも子供の臓器移植を行うことを、双方の同意があるとすれば、出来るのに認めないのは残念だと思っている。出来る技術力も設備もあるのにすることが法律によって出来ないのは変だと思う。というところでしょうか。。。

そのしわ寄せを海外に求めざるを得ない現状。
では、海外ならいいのか?
外国でなら、お金さえあれば何をしてもいいと見られかねない状況に、何ともいえない居たたまれないような、いやな感覚を覚えるのです。

似たような感覚を覚えるものが、私には結構あるのです。
よくない表現ですが、「くさいものには蓋」「見ざる、言わざる、聞かざる」的な感覚がどうしてもついて回ります。

その現実に直面しない限り、素通りしていい、そのほうが楽、そのほうが生きやすい…んですよね。
これは、臓器移植の話以外でも、当てはまるのではないでしょうか?
私も全てのことに真正面からぶつかっていけるほど、強くないのは確かなんです。
でも、見なきゃいけない見つめなきゃいけないと無理やり首をそっちに向けているような状況です。(なので、最初に書いたとおり、自分はこう思っていると確認したくなかった。という感覚に自分はなるのだと思います。)

今、現状ではこの壁(法)があります。だから、莫大な募金を募るという行為は、好き好んでしたくてするものではない。
国によって我が子の生きれるかもしれない可能性を摘み取られているからこそ、そうせざるを得ない状況が起こっているのではないか?と思うのです。
もちろん、その影には、その活動が出来るところまで知っていてもやれなかったorやらなかった、知ることも出来なかったorしたくなかった等等、色々な状況や判断があることも承知しています。

その立場になったとき、私は少なくともある程度のことを知っていて、自分で、もしくは自分の家族とともに、どうするのかを決めれるようになりたいと今は思っています。
もし、自分自身が移植を必要とする時が来るとしたら、子供が居ないときでしたら、それを選ばない自分が居ます。
でも、明日必要になったとしたら、選ぶし、16年後なら、やはり選ばないでしょう。。。。私は、少なくとも充分に自分らしく生きたと、いつ命が尽きたとしても思えるのですが、今となっては、残していく子にとって、まだ生きていたいとおもう自分も居るということです。

という大前提に立っていますので、自分も子もドナー登録すべきだと思っています。

次に続きます。
 





   >>> 障害についての思い たんぽぽ   -- 2006/05/31..
 
 このスレッドで、盲目、障害という言葉を使っていますが、差別的な意味で使っているのではないことをご了承ください。

 私は、障害は肉体の個性だと思います。私が最も尊敬する方は脳性麻痺の方で、さまざまな苦しみを乗り越えた方の輝きがいかに素晴らしいものか、よく理解しています。

 しかし、現実的な意味で、やはり障害をもつことは辛いです。私は人格が未熟なので、できれば辛い思いはしたくないと思っています。
 そういう意味で書いたことですので、ご了承ください。