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トマトの気持ちさんへ 2 たんぽぽ  -- 2006/06/08 ..
 「がんばれ、○○」のコラムは読みましたが、まず、匿名3・3さんがおっしゃっていたことが気になりました。米国や豪州ならば、いかなる場面でも臓器を提供してくれた人に最大の謝辞を述べるとあります。
 もちろん、謝辞はありますが、移植を待つ子供やその親の辛さの方が強調されているように、私には、思われました。ドナー登録をお願いされていますが、そこに、どうして、自分たち夫婦と子供たちが脳死と判定された場合には、是非全ての臓器を提供したいという意思表示がないのか、不思議でした。

 森岡正博さんの論文も読みましたが、日米で宗教的背景が違うということへの反論の根拠があいまいであると思います。ドナーになりたくないという理由が、米国でも日本と同じだというだけでは、何も論証できないと思います。
 それよりも、ドナーになりたいという人の動機や意志の強さ、人数を比較しなければならないと考えます。インターネットで簡単に検索できる範囲では、アメリカのドナー登録が20パーセントであるに対し、日本では11パーセントだというくらいのことしか分かりません。日本のドナーカード常時携帯率は4・2パーセントとなっています。

 この結果を見る限り、日米の差はそれほど大きくないように見えます。しかし、実際に臓器を提供する人の数を比べると雲泥の差です。アメリカの人口は日本の2・5倍程度でしょうが、アメリカでは、提供者が年間7000人、移植数2万件であるのに対し、日本では臓器提供者は数十人、移植件数は百数十件です。提供者のうち脳死者は数人です。
 
 アメリカでも死者の体を傷つけることに拒否感を持つ人は多いということですが、実際に提供しようという人の数は、日本と比べれば圧倒的に多く、その背後に宗教観の相違があるであろうと、私は考えます。
 ですから、日本で子供の臓器移植が認められても、移植を求める人は増えても、提供者がいるかどうかは疑問です。実際に、法が認めても大人の提供者もごくわずかなのですから。意思表示ができない子供の臓器を提供する親は、どれくらいいるのでしょうか。

 私は、アメリカを賞賛するつもりはありません。ただ、ドナーになりたいという人には敬意を表します。子供の臓器を愛をもって他者に提供する人を尊敬します。

 臓器移植というと、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」を思い浮かべます。生前幸福だった王子が、死後に銅像となり城の外の現実を知り、ツバメに頼んで自分の刀剣についた宝石や、自分自身の目となる宝石、体の金メッキを貧しい人たちに捧げるという話です。金メッキもはげて、すっかり醜くなった王子の銅像は、溶鉱炉に投げ入れられます。しかし、溶鉱炉でも溶けなかった王子の割れた心臓とツバメは、神に召されるというものです。

 この王子は、苦しむ人々に、その人々の役にたつもの、自分の目や皮膚、与えられるものは全て与えました。今で言えば、まさにドナーです。
 人の苦しみに耐えられず、自分の全てを提供しようという意志は、尊敬すべきものだと思います。それは、死後も自分の一部が生きるようにとか、子供の一部が生き残るようにという、そういう願いとは別のものであると思います。
 
 この話は、非キリスト教徒である私には、王子が溶鉱炉に投げ入れられるところで終わってしまいます。神に召されるということに特別な救いを感じられないのです。しかし、熱心なキリスト教徒にとっては、それは心からホッとできる結末なのでしょう。そういうところに宗教的背景の違いがあると、私は思います。

 このサイトにも、子供を失った人は大勢いらっしゃいます。その方一人一人の悲しみは、臓器移植を求めていらっしゃるご両親の悲しみや苦しみに劣るものでは全くありません。そして、お子さんをなくした方からみると、ドナーとなるお子さんの方に思いがいくこともあるでしょう。子供の死に直面する親の気持ちに共感できても、それを一人で耐え忍んだ自分のことを考えると、複雑な思いをもたえる方もいるでしょう。
 本当に、デリケートな問題なのだと思います。誰かの死が待たれる医療である限り、それに違和感を感じる人がいるのは仕方のないことでしょう。

 臓器移植を求める人がいることは、人情としては分かりますが、特に尊敬すべきことだとは思いません。しかし、是非ドナーになりたいという人については、尊敬しますし、その意志は尊重されるべきものだと思います。そういう方向から臓器移植が広まっていくのなら、それは素晴らしいことでしょう。

 トマトの気持ちさんの、臓器移植推進への動機が、どうしてもドナーになりたいのになれない現行の法律を変えなければならないというものであったら、また反応も違ったのではないでしょうか。

  命を本当に大切にするとはどういうことなのか、これからも考えていきたいですね。


たんぽぽさん、原文をありがとうございます。   トマトの気持ち
通行人さんへ   たんぽぽ
ひげさんへ   たんぽぽ
ドナー登録制度?   通行人
たんぽぽさんへ   あん
トマトの気持ちさんへ   たんぽぽ
ひげさんへ   たんぽぽ
感想。   ひげ
与死許容の原則2   たんぽぽ
与死許容の原則1   たんぽぽ
高知赤十字病院での脳死患者からの臓器摘出についての公開質問状2   たんぽぽ
高知赤十字病院での脳死患者からの臓器摘出についての公開質問状   たんぽぽ
あんさんへ   たんぽぽ
たんぽぽさんへ   トマトの気持ち
ジェンさんへ   たんぽぽ
りりちゃんさんへ   たんぽぽ
ちかあきさんへ   トマトの気持ち
たんぽぽさんへ   トマトの気持ち
ニンゲンの欲望。   あん
個人的意見   ジェン
脳死って、本当に、死なのでしょうか。2   たんぽぽ
脳死って、本当に、死なのでしょうか。1   たんぽぽ
marukaさんへ   たんぽぽ
私自信は平気なんですが・・・   りりちゃん
ドナーになるのは誰なのでしょう。   たんぽぽ
たんぽぽさんへ。   トマトの気持ち
私の死生観、脳死、臓器移植について2   maruka
私の死生観、脳死、臓器移植について1   maruka
未久さんへ   たんぽぽ
身勝手で個人的で出口の無い意見ですが   未久
ドナーになるということ   たんぽぽ
脳死は人の死なのでしょうか   たんぽぽ
匿名4さんへ   トマトの気持ち
たんぽぽさんへ   ちかあき
サリー紫さんへ   たんぽぽ
匿名4さんへ   たんぽぽ
考える機会をありがとうございました   サリー紫
ちかあきさんへ   たんぽぽ
分からないこと   匿名4
こんばんは   ちかあき




 

   >>> たんぽぽさん、原文をありがとうございます。 トマトの気持ち   -- 2006/06/08..
 
わたしもこの文章を見てたので、書いたのです。
原文の場所はどこだか解らずにいました。ありがとう。

でも、再読してみると、自分のフィルターを通した上で吸収していたことに気付かされます。
大変失礼致しました。
 





   >>> 通行人さんへ たんぽぽ   -- 2006/06/07..
 
 通行人さん、ご返信ありがとうございます。

 ドナーカードにドナーとなる意志を明記し携帯することです。

 ご指摘いただき、ありがとうございました。
 





   >>> ひげさんへ たんぽぽ   -- 2006/06/07..
 
ひげさん、ご返信ありがとうございます。

 このサイトには、優しい方が多く、人の役に立つならばできることをしたいと考える方が多いようですね。

 だからこそ、みんな人には言えない相談ごともなさるのでしょう。

 ここの仲間は、私にとっても心の友となっています。

 ひげさん、もし、ドナーカードをお持ちなら、是非「医療を考える会」のホームページをごらんになってください。

 ひげさんがお幸せでありますように、ひげさんの赤ちゃんがお母さんに気づいてくれますように、心からお祈りいたします。
 





   >>> ドナー登録制度? 通行人   -- 2006/06/06..
 
非常に興味深く読ませていただきました。
一つだけ指摘させていただきますと、日本には正式な形で全国を網羅する臓器移植に関してのドナー登録というものは存在しません。
一部、地方組織で限定的に行われているものはありますが。
ですので、そこの部分でアメリカと比較する事はできないかと思います。
 





   >>> たんぽぽさんへ あん   -- 2006/06/05..
 
補足です。
その、献体に・・・という方は、すでに70歳になられており、かなり複雑な人生を送ってこられた方なんです。
そしてやっと、今は身辺が穏やかで、心がとても充実して、幸せのようです。
幸せは、自分のこころが決める・・・と言いますが、本当に、まんまの人です。

たんぽぽさんが前に買いてらした「幸福の王子」今日、買いました。
昔読んだことがあるような気もするのですが、内容がおぼろげです。じっくり呼んでみますね♪
 





   >>> トマトの気持ちさんへ たんぽぽ   -- 2006/06/05..
 
 トマトの気持ちさん、ご返信ありがとうございます。
 
 脳死が先か、臓器移植が先かという話ですが、次のような文章を見つけました。参考までにコピーします。
「脳死」・臓器移植を問う市民れんぞく講座 2001 12月8日 より
 講師は、朝日俊男(医療文化研究センター)氏です。

人工呼吸器が「脳死」を生み出したわけではない
 さて、臓器移植に触れる前に、一般によく言われる「脳死は、人工呼吸器の開発によって出現した」という誤解を解いておく必要があります。歴史的な流れを見ると分かるのですが、人工呼吸器の原型である「鉄の肺」という装置は1928年に開発さ れ、人工呼吸器とほとんど同じように使われていました。第二次世界大戦頃には今日の人工呼吸器と同じ構造の装置が、大きな病院ではすでに使用されていました。ですから、人工呼吸器が開発されたのは70年以上前からということになります。これに 対して、今日でいう「脳死」という状態が生まれたのは1968年にハーバード大学で、「不可逆性昏睡」として定義されたのが最初です。これは南アフリカで初の心臓移植が行われた半年後でした。人工呼吸器で生き延びていた末期状態の脳障害患者は 第二次世界大戦頃からいたはずですが、その人々が臓器提供資源として利用する技術ができた時に「これは死体にしましょう。」と「脳死」概念が発明されたことが、この歴史的経過にはあらわれています。

 これまで説明しましたように、アメリカの「大脳皮質死」やイギリスを中心とする 「脳幹死」さらに「全脳細胞死」と、色んな「脳死」定義や概念があります。こんどは、その違いではなく、共通点の方に目を向けてみましょう。定義はバラバラですが 、価値観という面では、「『脳死』を人間の死の一種として認めることが必要だ」と いう点では、どれも共通しています。つまり、その患者さんを診断して治療するため に役立つ概念ではなく、「脳死」という考え方を持ち込むことで、その人を権利のある生きた人間、動きに何か意味があるかも知れない、痛みを感じるかも知れない人間ではなくて、「もはや生きた人間ではないが、有効利用することが必要な資源・死体 ・モノとして考える」ための手段となる概念なのです。
 





   >>> ひげさんへ たんぽぽ   -- 2006/06/05..
 
 ひげさん、ご返信ありがとうございます。

 私も、今回、初めてこの問題に関心をもって調べたのですが、調べれば調べるほど疑問が出てきます。

 少なくとも、脳死者は、「ラザロ徴候」と呼ばれるような複雑な動きをしますし、手術時には心拍も血圧も急上昇します。
 深昏睡にある人も、蘇生すると、周囲の状況を理解していたといいます。

 脳死者は、手術時に恐怖と激痛を味わっているという医師もいます。

 本当のところは分かりませんが、ドナーカードを携帯するのなら、そのあたりのことは調べた上で、決断した方が良いでしょう。

 私などは、人生の最期は、安らかなものでありたいと願ってしまいます。
 





   >>> 感想。 ひげ   -- 2006/06/05..
 
とにもかくにも、ドナーが自分の死を自分で決定できないところに、今後も議論の種がありますわね。

『死んだら』提供しても良いと思いますが、あくまでも『死んだら』であって、『死んでないわよ!』と意思表示できない状況で脳死と判定されるのはイヤですね。
じゃあ、尊厳死の意志表示もしておけばいいのか、とか、万が一に備えて保険に入るような気分になってしまいました。

最後に人のお役に立つならば・・などとおこがましくもササヤカな考えを抱いていたワタシですが、知れば知るほど身動きが取れなくなってきます。
所詮、小心者と我が身を嘆きつつ、いづれは、一切のEXCUSE無しに身を投げ出せるまで悟りたいものだと改めて思います。

生者の側から語るしかない以上、『死』は死者その人の問題ではなく、残された生者の問題なのだと思い知りました。
 





   >>> 与死許容の原則2 たんぽぽ   -- 2006/06/05..
 
20050410
移植学会 脳死概念を放棄か 松村氏の「与死許容の原則」を紹介
“社会存続・臓器獲得のため、社会の規律で生きていても死を与えよ”
 4月10日付で発行された日本移植学会雑誌「移植」40巻2号は、p129〜p142に松村 外志張氏(まつむら としはる・株式会社ローマン工業細胞工学センター)による「臓器提供に思う−直接本人の医療に関わらない人体組織等の取り扱いルールのたたき台提案−」を掲載し ている。

 論文は「1.夢の実現は新しい問題を連れてくる」の見出しで始まり、臓器移植法が制定されたものの脳死者からの臓器移植が伸び悩んでいることから書いている。松村氏はp140以下で、未完成と断りながら4つの原則を掲げた(要約)。

㈰生存者意志優先の原則
 死者の生前の意思表示よりも、遺族あるいは親密な関係者の意志を優先して尊重する原則である。ドナーカードでの意志表示は、遺族のおそれを削減することが第一義であり、取り扱いの決定はあくまでも遺族に委ねるとするのがここでの提案である。極端に言えば、遺族がおそれなければ、そしてそれにかけがえない必然性がある場合には、ドナーカードで拒否している死者からの移植臓器の摘出もありえるとの立場である。

㈪特定条件における与死許容の原則
 科学的な根拠に基づき、国会の承認を経て定義された一定の判定基準を満たしている者に対して、遺族あるいは親密な関係者が死を与えることを、本人が生前に遺族に対してそのような判断を委ねている場合には、非倫理的であるとは見なさないとする提案である。この提案はまことに悲しい提案であり、また誤解を受けるかもしれないとおそれている提案でもある。ここでは脳死を死と認めるかどうかを論ずるのではない。つまりこの提案は、遺族あるいは関係者が、科学的根拠に基づいてある特定の判定、この場合は脳死判定を受けた者に対して死を与える、つまり殺意を持つことを非倫理的なこととして排除しない、ということと同義だからである。ここで「殺意」を非倫理的なこととして排除しない特定の判定基準の内容は、法律で規定されなければならないとしても、脳死と限定しているわけではない。それは時代に合わせて国民の決定に委ねられるのである。

㈫命のつながり重視の原則
 脳死体も含めて死体から提供される移植目的の臓器提供は、移植によって生命がつながる可能性が高い場合を優先するとする原則である。歴史上、なにゆえに与死が許容されてきたのかを回顧した時、すべての場合、それが結局はその社会の存続に関わってきたのであることが察せられる。平和の続く我が国では、忘れられがちなことではあるが、我が国で社会の存続に関わるような危機はすべて回避されているかというとそうでなかろう。とどまらない出産の減少はなにを意味するのであろうか。心臓が動いている者に死を与えてまでなさねばならぬことがあるとすれば、その意味は、したがって明らかなのではないだろうか。

㈬訓練必須の原則
 緊急の場において、悔いない判断をするためには、日常生活のなかでの訓練が必須であるとする原則である。臓器移植といった課題に対応するために、三回忌が済んでからでは間に合わない。身近にあって生きている者が死ぬということはそうしょっちゅうあるものでない。そこでなんの精神的な準備もなければ、脳死の宣告を受けた段階で確信をもって臓器移植を判断することは容易なことではないに違いない。日常的な訓練によって冷静な判断に到達する時間を短縮できることは当然予想できることである。

 松村氏はp141の「まとめ」で「医療技術の進歩は、夢の実現とともに新しい課題ももたらしてきた。臓器移植は、そうでなければ限られた生命の日数を数える患者に生命の延長を許すのみでなく、社会生活への復帰などかけがえない人生の喜びを与えている。死体あるいは脳死体からの提供が望まれており、またそのための法律も公布されているが、実績としてみた時、生体臓器移植が圧倒的な増加を見せている。すなわち、移植のための臓器の多くは、そのために命を危険にさらすことも惜しまない親族から提供されているのが現実である。なかんずく、次世代を育みつつある者を容易に命の危険にさらすような環境を作ることは、先進近代国家としてあってはならない。臓器移植の世界は全く新しい世界であり、過去を振り返っても得るものはないとの考えがあるかもしれない。しかしあえて、過去の歴史と我々の生活習慣のなかから、新時代に対応できる智恵の種を探ろうとした。ここでは、個人に 降りかかってくるリスクをコミュニティーのなかで分散し、社会全体で支えてきた様々な知恵があることがうかがわれた」としている。
 





   >>> 与死許容の原則1 たんぽぽ   -- 2006/06/05..
 
 与死許容の原則は、4月10日付で発行された日本移植学会雑誌「移植」40巻2号、p129〜p142に掲載された、松村 外志張氏(まつむら としはる・株式会社ローマン工業細胞工学センター)による「臓器提供に思う−直接本人の医療に関わらない人体組織等の取り扱いルールのたたき台提案−」において提唱されたものです。

 その内容を要約したものが、kawakita on the Web 2006−3−25にありますんで、分かりやすいので紹介いたします。ここには、小松美彦氏は、アメリカでは既に尊厳死からの臓器移植が行われていると言っていると書いてあります。
 与死許容の原則に、臓器移植ネットワークは賛成しているということですが、今後の流れとして、本当に「脳死」が厳密に守られるといえるのでしょうか。2に、News2005-4を紹介します。

kawakita on the Web 2006−3−25
「与死」という概念
光石氏は小松美彦氏が論文で提唱者を紹介していた「与死(よし)」という概念を説明されていました。

松村外志張氏(株式会社ローマン工業、研究者)が「与死」という概念を日本に導入すべきと主張。臓器移植ネットワークは賛成。
社会の規定によって与えられる死を本人が受容する形でなされるのが「与死」。本人が死を受け入れているという点では「殺人」とは違う。死を選択するという本人の意思を尊重するような尊厳死とも違う。
「死ぬ」と「殺す」の間に「与死」という概念が導入されれば「死ぬ」と「殺す」の概念が曖昧になっていく恐れがあるとのこと。
会場に聴衆として参加していた小松美彦氏がさらに背景を解説されていました。

松村外志張氏が日本移植学会の論文で紹介。日本人は臓器移植や再生医療などの研究・産業利用のために人体・身体を出すのを躊躇する傾向が強くそれをどう解消するかという内容。その解決案のひとつが「与死」という概念の導入。
脳死者などその時に社会や国家が決めた人に対して死を与えることを許し、臓器や身体の一部をとりだして研究・産業に利用し、それを非倫理的なことだとは規定しないという内容。事実上は社会や国家から尊厳ある死の強制。しかも死なせるだけでなくその人々の身体を利用することと結びついている。
アメリカでは事実上の尊厳死移植が相当数行われている。脳死状態に至る手前で臓器提供の意思を示せば摘出が可能。そのようなマニュアルを持っている病院が半分以上。日本でも尊厳死と臓器移植は結びついている可能性がある。

 





   >>> 高知赤十字病院での脳死患者からの臓器摘出についての公開質問状2 たんぽぽ   -- 2006/06/05..
 
1からの続きです。

今回の高知赤十字病院の一連の行為は、多くの人に不信を抱かせた。早すざると断ぜざるを得ない脳死宣告、臨床的脳死診断時に脳波が平坦でない状況において無呼吸テストを実施したという暴挙、そして何よりもおろそかにされた救命治療。これらは全て昨年6月厚生省が臓器提供病院を一挙にかつ一方的に拡大した結果であり、その責任は重大である。加えて、2月26日以降は一変して患者のプライバシー保護を理由に、脳死判定や臓器摘出に係る事実を非公開とすることを指導した。これは国民の「知る権利」の侵害であり、報道統制にもつながりかねない。
ドナー患者の治療の保障、更には国民にとっての開かれた医療の保障に関して、厚生省の責任の所在を示せ。

 なお、本公開質問状に対しては、下記「脳死」臓器移植による人権侵害監視委員会・東京の事務局宛、文書によりご回答されたい。

平成11年3月4日

「脳死」臓器移植による人権侵害監視委員会・東京  代 表 綱 川 英 治
「脳死」臓器移植による人権侵害監視委員会・大阪  代 表 岡 本 隆 吉
脳死・臓器移植を考える委員会 代表 阿 部 知 子
同  松 本 文 六
医療を考える会 代表 山 本  歩
全国交通事故遺族の会 会長 井 手  渉
日本消費者連盟 運営委員長 富 山 洋 子
宗教法人「大本」 代表役員 植 村  彰
脳死・臓器移植に反対する関西市民の会 代表 岡 本 隆 吉
ナゴヤNO脳死 代表 五 島 幸 明
 





   >>> 高知赤十字病院での脳死患者からの臓器摘出についての公開質問状 たんぽぽ   -- 2006/06/05..
 
 医師を信頼すべきだというご批判がありましたので、高知赤十字病院への公開質問状を紹介いたします。
 この件について、脳低温療法等の救命治療はなされたのでしょうか。

知赤十字病院での脳死患者からの臓器摘出についての公開質問状
厚生大臣 宮下 創平 殿

 臓器の移植に関する法律制定時には、次のような付帯決議が採択されている。

 「臓器摘出に係る法第6条第2項の判定については、脳低体温療法を含めあらゆる医療を施した後に行われるものであって、判定が臓器確保のために安易に行われるとの不信を生じないよう、医療不信の解消及び医療倫理の確立に努めること。」

 従って厚生省には、今回高知赤十字病院で2月28日脳死から臓器を摘出され、結果死亡させられた女性患者につき、病院が救命治療を施したのかどうか調査・検証し、情報開示する義務があると考える。

 私たちは、臓器移植が優先され救命がおろそかにされ、患者の救命治療を受ける権利が侵害されていると考え、この一連の行為を容認・指導してきた厚生省に強く抗議し、以下につき質問する。

病院は患者の病名をクモ膜下出血と診断したことを公表している。クモ膜下出血に対して、脳低温療法による数多くの回復症例が日本大学板橋病院の林成之医師により学会で発表されている。病院では、脳低温療法が過去に実施されていたか否か、実施されていればその実績を示すこと。
今回の患者に対して脳低温療法の適応があったか否か、ないとすればその根拠を示せ。
病院は2月23日に移植コーディネーター2名を呼び家族と接触させ、臓器摘出の説明をさせているが、この段階で主治医は「臨床的脳死」と診断したのか、そうだとすれば、「臨床的脳死」と診断した時刻とその根拠を示すこと。更に実施した検査項目とその数値を明示せよ。
主治医は、家族にコーディネーターを会わせるまでに患者に対してどのような救命治療を施したのか、治療内容を時系列的に示せ。
主治医が「臨床的脳死」を確認するに至った検査データを第1回目・第2回目共に検査項目毎にその内容を時系列的に示せ。
新聞報道によれば、主治医は2月25日午後に第2回目の臨床的脳死診断をしている。第1回目・第2回目の臨床的脳死診断はいずれも家族の承諾書を得ているか、その際誰が立ち会ったか明らかにせよ。
無呼吸テストの実施は脳死に近い状態の患者を決定的に脳死にしてしまう。従って、臨床的脳死診断においても無呼吸テストは他の検査が全て終わった後、治療上必要なときだけ認められている。新聞報道によれば、今回脳波が平坦でない状態であえて無呼吸テストを2回実施して主治医が臨床的脳死を確認しているが、何故救命治療に反する無呼吸テストを2回も実施したのか、その根拠を示せ。更に、どのようなモニターを配置しながら人工呼吸器は各々何分停止したのかを明らかにせよ。併せてその時の動脈血中酸素分圧(PaO2)の数値、及び動脈血炭酸ガス分圧(PaCO2)の数値を示せ。また右分圧は連続血液ガス分析装置を使用したか否か、使用していたならば当該ガス分析装置による記録と共に、全ての数値を時系列的に示せ。
上記無呼吸テストは脳波検査の前後いずれにおいて実施したかをあらためて明示せよ。また厚生省脳死判定基準では脳波計レンジは50μv/20mmとされているが、右脳波検査の際のレンジを明示せよ。
臓器移植法に基づき任命された脳死判定医が、2月25日20時13分より法に基づいた脳死判定作業に入っているが、その際脳波が平坦でない状態を確認しながら人工呼吸器を止める無呼吸テストを実施している。これは明らかに臓器移植法・厚生省令第2条3項に違反する行為である。判定医は何故このようを違法行為を行ったのか理由を明らかにせよ。
脳死判定医が実施した上記脳死判定時の全ての検査数値を時系列的に示せ。またその際脳波計レンジをどのように設定していたか、及び連続血液ガス分析装置を使用したか否かをも明らかにせよ。

長いので2に続きます。
 





   >>> あんさんへ たんぽぽ   -- 2006/06/04..
 
 あんさん、ご返信ありがとうございます。

 ブッダのために身を捧げた兎の話がありましたが、ブッダの前世の薩タ王子は、飢えた虎の親子のために自らの身を与えたと言われています。「捨身飼虎」と言われます。

 本当に、この世で最も尊い行為というのは、こういうものであり、私も尊敬の念を覚えざるを得ません。

 アウシュビッツのコルベ神父も、処刑されようとする人の「死にたくない」という叫びに応じて、その人の身代わりになることを進言し、餓死されました。

 臓器移植の問題や献体の問題についても、しっかりと認識されたうえで、自分は人の役に立ちたいという方を、心から尊敬いたします。

 ただ、臓器移植というと、臓器移植を望む側、とくに小さな子供たちの映像ばかりが目に入り、ドナーの側からみることがなかったので、トマトの気持ちさんに質問したのです。

 あんさんのお友達は身寄りがないということですが、ご結婚はなさらないのですか。その方に素敵な家族が現れることを祈ります。そんな方に、是非幸せになっていただきたいですね。

 あんさんのお幸せも祈っています。あんさんの赤ちゃーん、お母さんはココデスヨー!
 





   >>> たんぽぽさんへ トマトの気持ち   -- 2006/06/04..
 
たんぽぽさん、りりちゃんさんへの返信の中の>まず、臓器移植がなければ、脳死という概念は生まれませんでした〜以下略 はちょっとニュアンスが違うように思います。

細かいことですが、まず、医療の進歩があって、救命救急措置が進んだから、
脳死とうい状態が生まれるようになってしまったのです。

通常、完全な死を迎えるとき、刻一刻とその状態は進みます。
そしてその中で、まず、酸欠が徐々に起こり、心臓の働きが徐々に低下し、当然血流量も下がり、結果脳への血流量も下がり、脳も酸欠を起こし、そしてどっちが先かといえば、最初は心臓が止まり、そして脳も活動を停止するらしいです。

ごく普通に来る死は「心臓死→脳死」という順序らしいのです。

ところが、救急救命措置が進んだ現在、肉体の死へのスピードを落とすことに成功しても、脳の死へのスピードはそのままになってしまった場合が起こっていると私は思っています。

なので、「脳死→心臓死」と順番が逆になってしまったケースであるということらしいのです。

そういう状態が起こるようになってから、脳死→移植医療というものが出てきて、「脳死を人の死としましょう」という概念を生み出すことになった。
そこから、スタートしているようにわたしは思っています。

なので、細かく見ていくと、患者の診断として出てくる脳死と、ドナー適合を見る脳死では、おなじ脳死と書いてあっても、脳死の意味合いが違っているように私は見ています。ややこしいです。
診断で言われる脳死は概念的には、生きている人とみなされている。
ドナー適合を確認するときの脳死は概念的には、死んだ人とみなされている。

では、移植医療を行うための脳死をどういう基準で判断するか?
死んだ人とみなされる脳死と、生きた人とみなされる脳死と、どこがどう違うのか・・・。
そして、どちらの脳死といわれた場合でも、そこから蘇生することが出来るとするならば、たんぽぽさんも疑問に思っている通り、それは死ではないはずです。
ドナーとなりたいか、なりたくないかの意見(気持ち)の違いはあれど、その部分ではおそらく、同じように感じていると私は思っています。

さらに、医療は進み、今、脳低温療法からの蘇生が可能になっている。
その部分にも意味は非常に大きいものがあると思っています。
 





   >>> ジェンさんへ たんぽぽ   -- 2006/06/04..
 
 ジェンさん、ご懐妊おめでとうございます。
 順調そうで一安心です。ジェンさんは、絶対大丈夫だと思っていました。単に、検査結果がいいと聞いていたからですが、そんなに体の状態のいい人ならきっと大丈夫、妊娠して無事出産されると信じていました。

 これから、暑くなりますが、頑張ってくださいね。

 さて、臓器移植についてですが、いきつくところは、脳死は本当に人の死なのかということです。人間の体というのは、本当に脳が全てつかさどっているのかなということです。

 脳低温療法によって、厚生省の基準では「脳死」とされた人が、蘇生し社会復帰しているということも気になります。蘇生臨界点は変わっているのに、厚生省基準が変わっていないとしたら、どうなのでしょうか。

 与死許容の原則などということまで、少なくとも議論の俎上にのること自体、どうなのかなあと思います。
 移植医のドナーカード所持率が低いのも気になります。

 法が改正するということですから、こういうことについて、一般の人も議論しておかなければいけないのではないかと、思います。

 ジェンさんの妊婦生活が快適なものでありますように、安産でありますように、心からお祈りいたします。
 





   >>> りりちゃんさんへ たんぽぽ   -- 2006/06/04..
 
 りりちゃんさん、ご返信ありがとうございます。

 脳死がどのようなものなのか、私もよく分かっていませんでした。

 まず、臓器移植がなければ、脳死という概念は生まれませんでした。普通心臓が止まれば脳の機能も停止しますし、脳の機能が停止すれば心臓も止まります。臓器移植のために、脳は死んでいるが体は生きている、つまり臓器提供が可能であるという、「脳死」という状態が考え出されたものだということです。臓器提供の意志がなければ、「脳死は人の死」ではありません。まず、脳の機能が停止して心臓が止まり、臨終となるわけです。

 脳死と植物状態とは違います。

 植物状態では、全脳の機能が停止している訳ではないので、「脳死」ではなく、臓器提供はできません。
 ここを誤解して、家族に迷惑をかけたくないからと臓器提供をしようとされるのなら、事実を誤認していらっしゃることになります。

 例外があり、そのために本当に脳死は人の死なのかと問い直されるわけですが、一般的には「脳死」すれば数日で心臓も止まり、亡くなります。

 「脳死者」が複雑な動きをするという報告がされますが、臓器を摘出するためにメスを入れると、「脳死者」の血圧が上がり心拍数が上昇するということ、そして、メスが入ると手術が困難なほどに動くということは、一般的なことだと報告されています。そのため、手術をするために麻酔が施されることが多いということです。

 先にも引用しましたが、脳低温療法によって深昏睡にあった人を蘇生させると、実は周囲の状況を認識していたという報告もあります。
 脳低温療法によって、厚生省基準での「脳死者」が多く蘇生し、社会復帰していると報告されています。これらの資料はこのスレッド内にコピーして掲載しています。

 脳死と植物状態は、違いますので、本当に臓器提供を考えられるのでしたら、そこは調べられた方がよいのではないでしょうか。

 現場の医師、移植医にドナーになる意思表示をしている人が少ないというアンケート結果なども、非常に気になりました。
 





   >>> ちかあきさんへ トマトの気持ち   -- 2006/06/04..
 
ちかあきさん、辛い経験のすぐあとに、この考えるだけでも辛いことに感じるスレットにレスをいただけたこと、いっしょに考えていただけたことにたんぽぽさんのスレットではありますが、その当事者として、感謝します。

>あの時の辛さ悔しさと後悔は、一生私の心から消える事はないでしょう。
の一文が、私には苦しいです。

なぜ?と思われるかもしれません。

私は、義母をちかあきさんと逆の立場で
あの時の辛さ悔しさと後悔は、一生私の心から消える事はないでしょう。
という気持ちになっている一人です。

急変の知らせが入り、義母が心臓マッサージを受けている所に私は到着し、
そして、主人が到着するまで、それを止めてと言葉に出来ず・・・、長い時間無理やり心臓を動かし続けさせてしまったという後悔が残っています。
主人が到着し、そして、心臓マッサージを止めてもらい、それと同時に母は亡くなりました。
義母は私にとっても母といって過言ではない存在でした。

どんな終焉であれ、大切な人を亡くすということは、辛さと痛みと悔しさがあるものだと私は思います。そして、あの時なぜ、こう出来なかったのだろうと後悔も残ります。ですが、その時のいろんな決断は、自分の痛みと戦い、大切な人を思いやっての判断であったはずです。私も後悔は消えないと思いますが、それでも、それが最善の選択であったと思おうと頑張っています。

 





   >>> たんぽぽさんへ トマトの気持ち   -- 2006/06/04..
 
1のほうでは、主に私的な部分での感情とかそう言ったものを書かせていただき、個人的なお返事にさせていただいているつもりです。
2の方へはもうちょっと客観的な部分で意見として書きたいと分けておりますこと、遅くなりましたが、記させていただきます。

という前置きはさておき。。。

私も、脳死のいろいろな文章をネット上だけではありますが、見ています。
その中で、留意してみていかなければならない事は、その報告があった、その時点での年代だと思っています。
2006年の今現在、低温療法があり、その記述の当時とは医療がだいぶ進んだ状態に今はあるということです。
これを今の医療レベルの常識に当てはめて読んでしまうと、むちゃくちゃなことがいっぱいされていたという印象になってしまう恐れがあります。

脳死って本当に死なのか?を考えるには、
まず、今現在の脳死にたいする定義を整理、または、自分はどれを持って脳死だと考えるかを把握する必要があると感じます。

たとえば、私の場合。あんまり医学的なむずかし言葉はよく解らないのでこんな感じです。

脳の全ての個所で脳波がフラットな状態であることが第一条件です。
自発呼吸が出来無いことが第二条件です。
自発呼吸が出来無いということは、これにより、延命治療(人工呼吸器などの器具を使い、生命維持している状態)で生かされている状態(死なせてもらっていない状態)である。と考えるからです。
生きている>脳死>完全な死 であると思っています。

これを自分の中の基準としているのですが、それに当てはめてしまうと、
乱暴な言い方に見えるかもしれませんが、ラザロ徴候や嗚咽などの反射があったとしても、自分だったとしても脳死と認められていいと思っています。

ただし、たんぽぽさんの報告にあるように、
>脳死判定後(または臨床的脳死診断後)に、脳波や痛み刺激への反応や自発呼吸の復活、脳血流の再開、ホルモンの分泌、身長が伸びる、など医師の脳死判定・診断を明らかにくつがえす、自然治癒したとも言える内容的にも目立つ症例の報告が、日本国内だけでも13例ある(以下の1〜9の詳細は各年齢別ページに掲載)。

これについては、やはり困惑を隠し切れませんよね?
この13例のその後はどうなったのか?一時的なものなのか?そこから、生還を果たしたものなのか?が気になりますよね?
おそらく、その13例は、「小児脳死判定後の脳死否定例(概要および自然治癒例)」の「脳死から復活した子ども達=“ラザロ患者”」ことをさしているのではないかと私は思っています。

YAHOOで「脳死判定後 13例 脳波 成長」といれればHPにたどり着くと思います。
これをみていただくと・・・・1〜9例が経過を簡単にですが、見ることが出来ます。
全て、亡くなっております。…。
また、その先に、2004年にまとめられた「小児脳死の実態と診断についての全国医師アンケート結果」へとリンクがのびるのですが、1の返信で触れていますが、では、脳死→ドナーを受け入れなかった時のその後が見えてくると思うのです。

 





   >>> ニンゲンの欲望。 あん   -- 2006/06/03..
 
私自身、実母が二ヶ月近くに及ぶ意識不明の状態から、
奇跡的?に意識をとりもどした経緯を目の当たりにしているだけに、
こういう問題については、本当に考えさせられています。

野生の動物と違って、人間は、欲深いですよね。

私の理想は、与えられた命を、それが寿命と思って受け止め、なるがままに死んでいくことです。人は、風のように、一瞬、この世界に吹いて、そして去っていくものだと。
でも、実際、生きるか死ぬかの場面にでくわしたら、理想どおりに行動する自信はありません。
臓器さえあれば助かる。そして、そうするだけのお金があったら、手術をしてもらうかもしれない、そこに「欲」が出てきてしまうからです。
すべての現象において、いろんな欲望のために人は苦しんでいるのだと思います。
野生の動物は、歯が無くなったらそこで終りです。自立した野生動物は、自力で食べられなくなったら死を待つだけです。
野生動物と人間を一緒に語るのもなんですが・・・。

知人で、すでに献体をしてもらうよう手配を済ませている人がいます。
彼は本当に「欲」のない人で、私が、
「献体をしたら、臓器を取られた上に、2〜3年も、解剖や研究のために薬につけられて、あげく家族の元に戻る時には、すでにお骨になっているんだよ」
「大学病院でバイトで夜間の警備員をしていた友達が、興味本位で、ある部屋に入ってみたら、お腹を開かれたままの死体が、そのまま一晩置かれていたんだってよ。」と言っても、
すべて知った上で了承しているのです。
身寄りもないので、お骨を預けるお寺さんまで決めて、話を決めてあります。
ブッダが食べ物が無く衰弱している時に、自分の肉を食べてもらうよう自ら火の中に入った兎の逸話がありますが、
その人を見ていると、その兎とだぶってしまいます(これまた動物と一緒にするのもなんなんですが・・・)。
とにかく。
そこまで覚悟した人ならば、敬意をもって私は送り出す気持ちです。
ただ、
たんぽぽさんが危惧されているように、
脳死状態になった家族、献体に送り出す家族が、どこまで把握しているのか、そこは問題だと思います。
なんだか、うやむやのまま「人のためになることをしたんだよ」と美談みたいにされてしまうのはどうかと思います。

「欲」にからむのが「お金」であり、そこらへんがどろどろと背景にあるので、確信がみえづらくなっている気がします。

私は基本的に、臓器移植には反対です。
でも、生死の直前にそれを貫ける意志が自分にあるのかというと、今は確信が持てません。
それから、募金。特に街なかの募金活動などには、
「今日はいいことあったから、募金しちゃおう!」
くらいの感覚で、する方も多いと思います。それはそれで結構だと思います。そのおかげで誰かしらが助かるのですから。
ただ、募金をする側の人は、しっかりした事実を把握して、信念をもつべきだとは思います。

はぁ〜。
皆さんのお話しのレベルには到底追いつけなくて、稚拙な考えのまま書き込んでしまった私をお許しください〜〜。
しかも、自分で書いていてまとまりがつかなくなってしまいました(情けない)。
はぁ〜(疲れた〜〜)。
 





   >>> 個人的意見 ジェン   -- 2006/06/03..
 
こんにちは。最近自分のことで頭がいっぱいで、初めて今日このスレッドを読みました。きちんと読んでいないので、いい加減な意見となってしまったら非常に申し訳ないのですが、単なる個人の意見を・・・。反対のご意見もたくさんあるとは思いますが、あくまでも個人の意見として、受け止めてくださる事を希望します。

基本的にはmarukaさんと同じ思いです。主人に聞いてみても、同じでした。脳死か何かで快復の可能性が全くない場合に限るのですが、自分達の臓器を使っていただけたらいいと思います。(ただ、皮膚や、顔の一部は残しておきたいと思っているのですが・・・矛盾ですよね?!)
自分の子供であっても、もちろんそうです。(今まだ妊娠7週なのですが、生まれて来てくれたら、(こんなことは考えたくもないのですが・・・)万一、万一ですが、脳死のような状態になったら、同じ事をすると思います。いけないことでしょうか。。。(ただ子供が大きくなって、自分の意思で反対であれば、その時は別です)私達夫婦は典型的日本人では「全く」ありませんので、それで考え方が違うと思うのですが、死んでからも魂は行き続けると思うし、それに臓器がどなたかの体の中で生き続けてくれたら、嬉しいことだと思います。もちろん、生きている私達から臓器を提供することは出来ないしいやです。

両親が同じ事になったら、もちろん彼らの意思を尊重します。私の親も主人の親もなんと言うか想像がつきません。でも、万一脳死のような状況で快復見込みが0%のようになった場合、両親の臓器が誰かの体で生きてくれると思ったら、その方が安心?できる気がします。そのように私達の利益になるだけでなく、提供を受ける人にも利益になるのですから。なんだか分けのわからないレスになってすみません。でもmarukaさんのレスを読んで、同意できるな〜と思いました。

ということで、臓器移植には賛成?です。でも、人に同じ事を期待したり、押し付けたりする気持ちはないです。たんぽぽさん、考えさせられるスレッドを立ててくださったことに感謝いたします。
 





   >>> 脳死って、本当に、死なのでしょうか。2 たんぽぽ   -- 2006/06/03..
 
 次に、医師が昏睡状態から蘇生したときのことを書いた文章を紹介します。出典は精神医学33巻6号ということですが、ネット上の出典は、1991年6月15日のNewsです。

東京都老人医療センター名誉院長の豊倉 康夫氏は、精神医学33巻6号で、自らがペニシリンショックで昏睡状態となった後に、人工呼吸によって蘇生された時の経験を報告した。「これはもう駄目だな」という溜息まじりの声も聞こえたという。以下は要旨。

 p572〜p573掲載の「臨死体験の記録 死の直前のEuphoria『物質』によるものか?」によると、豊倉氏は1956年、33歳の夏、扁桃炎の高熱の中で実験を終えた後、治療室で立ったままペニシリンの注射をしてもらった。注射が済んで間もなく気分が悪くなり、突然激しいめまいに続いて、視界が一面に黒灰を撒いたように黒くなり、みるみるうちに視界が狭くなった。

 (中略)突然息ができなくなった。そのまま転倒したが、その時見た自分の指のチアノーゼをはっきり覚えている。(中略)まだその時ははっきり意識があった。(中略)そして地面に吸い込まれるように意識がなくなったのだが、問題はその短い間に味わった何ともいえない恍惚感(ユーフォリア)のことだ。先ず頭に浮かんだのは御茶ノ水の聖橋のあたりの光景、結婚後間もなかった河田町の狭い借家の様子、あとはただ極楽の花園をさまよい、・・・・

 (中略)かすかに意識が戻りかけたとき、おぼろげながら分かったのは、ベッドに寝かされた私の上に馬乗りになって人工呼吸をしてくれている医師であった。(中略)ただ人工呼吸をやってもらうのがこの上なく楽だ。無性に有難かった。少しでも手を休まれると途端に息が苦しくなるので、<どうかそのまま続けて>といいたいのだが声が出ない。まわりの人々の声は聞こえる。「これはもう駄目だな」という溜息まじりの声も聞いた。<いや、もう意識が戻ったのだ>と医師や看護婦さんに伝えたいのだが、声はおろか指1本、体の一部さえ動かすことができない。(中略)そして突然、<助かったのだ!>という喜びと実感が現身の中にこみあげてきたのである。私は渾身の力をふりしぼって眼を開いた。

 (中略)このことは、その後の私の医者修行にとって大きな啓示となった。昏睡状態の患者に対しても、大きな声で励ましの言葉をかけ、手を握りしめ、安心感を与えることがいかに大切かの確信がもてたからである。私の体験からも、聴覚、触覚、圧覚の刺激は、昏睡の脳にもそのインパルスは到達するであろう。また、それを知覚できる可能性もまったく絶たれてはいないであろう、ただ外から認知できるような反応を患者が表出できないだけの「意識障害」かもしれないということである。

 
 このケースでは、脳波がどうであったのか分かりませんが、林成之教授の患者さんたちのケースのように、「脳死者」であった人たちが、外見上の昏睡とは裏腹に、全ての周囲の情報をキャッチしていたとしたら‥。

 そんなことはないのでしょうか。本当に脳死は、人の死なのでしょうか。

 アメリカでも、脳死は人の死かどうか議論があるようですが、そのような議論に対し、ハーバード大学のトロウグ博士は「臓器移植のためなら殺人も許されてもよいのでは」という論文を発表したそうです。
 博士は、小児科医であり、同大学の医療倫理講座の助教授であるということです。
 内容は分かりませんが、このような題の論文を書く医師がいるということです。

 





   >>> 脳死って、本当に、死なのでしょうか。1 たんぽぽ   -- 2006/06/03..
 
 トマトの気持ちさん、ご返信ありがとうございます。私は、あまり分からずに発言しているところがありますので、どうか、教えてください。

 ただ、この三日ほど、とにかくインターネットで検索できる範囲では、色々と調べてみました。出典が明記されているところを調べていますので、いいかげんなサイトをのぞいている訳ではありません。

 私が知りたいのは真実です。

 「愛ですか?脳死臓器移植」のホームページに記載されていた脳低温療法について、考えたいのですが、まず出典を明らかにします。それは同名の本の内容を要約したホームページです。
『愛ですか?脳死臓器移植—議員と市民の勉強会報告集』は、脳死臓器移植を考える会編集で社会評論者から出版されています。手元に本がないのですが、Amazomで調べたところ、1997年12月のものと1999年11月のものがあります。おそらくは1997年が初版で、1999年が再版されたものでしょう。

 先日も書きましたが、脳低温療法で助かっている方々は、厚生省脳死判定基準では脳死だったとあります。つまり、この方たちは、定義上「脳死者」ですよね。
 脳死者75名中、56名が生還したとしたら、脳死を人の死だとして良いのでしょうか。

 脳低温療法を開発した日大板橋病院の林成之教授は、「脳死者」が、昏睡にあっても周囲の状況を認識していると述べているそうです。「そうです」というのは、私が原典にあたっていないからです。出典は、明記してありますが、私にはインターネット上の情報しかありませんから、今のところ「そうです」としか言えません。ネット上の出典は、「『脳死』・臓器移植に反対する関西市民の会」の2004年6月5日のNwesです。以下Newsとさせていただきます。


昏睡状態とされていた時期に、患者は周りのことを知っていた
「脳低温療法で何人も経験している」 日本大学の林 成之氏
 日本脳死・脳蘇生学会機関誌「脳死・脳蘇生」16巻1号、p22〜31の「重症脳損傷患者の意識障害と植物症に対する新しい治療戦略」において、日本大学医学部(救急医学)の林 成之氏は、深昏睡とみなされている時でも、周囲の状況を認識している患者が多いことを報告した。

 遷延性意識障害患者の反応の評価が困難なことを述べ、続いてp23において「もっと困ることは、脳低温療法で、従来の管理法では助けることがほとんどできないと思われていた重症患者を、回復させてみると、患者は外からの刺激にまったく反応しない昏睡状態の時期に、その時周りのことを知っていたと言う患者を何人も経験するようになった事である。はたしてこれを意識障害と言っていいのだろうか?」と書いている。

 
 長くなるので2に続きます。
 





   >>> marukaさんへ たんぽぽ   -- 2006/06/02..
 
 marukaさん、ご返信ありがとうございます。現場のことを良くご存知の方からの返信は、非常にありがたいです。

 なぜなら、私が知りたいのは真実だからです。私は、何も知りません。インターネットでさまざまな情報を検索し、ご紹介しているに過ぎません。しかし、情報源は明らかにしていますので、間違っているのでしたら、それを指摘していただけませんでしょうか。

 多くの医師が、真剣に誠実に医療に従事されていることは、よく分かります。勤務医の仕事がいかに過酷であるか、ある程度分かります。真剣に悩みながら、苦しみながら働いておられる医師が多いことは認めます。

 私が知りたいのは、真実です。どうか、教えてください。
 たとえば、次にあげるのは、それが法的に認められる以前に脳死患者から腎臓を摘出したということで告発された医師の言葉です。この医師は、自分は家族の了解を得ているから、むしろ誠実であり、うまくすり抜けてきたところが多いのだと言っています。これは、全くのデタラメなのでしょうか。

 「『脳死』・臓器移植に反対する関西市民の会」のホームページ、1991年1月23日のNewsに掲載されています。

 信楽園病院副院長・平沢 由平氏

 「脳死」患者2名からの腎臓摘出で、東大PRCより新潟地検に告発されたため、「私どもとしては十分なる誠意と充分なる手続をもって実行したと思っております」と前置きして発言を開始した。そして脳死腎移植を行なった時のドナー家族への説明および説明する動機を以下のように述べている。

 私どもがもう一つ家族の人に了解を得たのは、脳死の状態でいただくということでした。心臓死の状態で、無理すれば移植もできますけれども、それはむしろ死の尊厳を傷つけることになりかねない。その場合は、脳死の状態で手術場に入れまして呼吸器を止め、心臓が止まるのを待つわけですが、それは、私どもにとっても耐えがたい時間である。心臓が止まったら今度は、早く取り出さなければ、臓器が傷んでしまいまして、せっかくくれるという善意になかなか応えられなくなる状態を生む可能性がある。そういう傷んだ腎臓をもらったレシピエントの方が、あるいは逆に迷惑を受けてしまう可能性があるので、脳死の状態でいただきたい。その方が、十分に周囲に配慮した、ゆっくりした手術過程で腎臓摘出ができる。死者に礼をもって対応することができるということでお話をいたしまして、それを了解してもらいました。・・・・・・私どもの経験いたしました死体腎移植というのは、脳死の状態で呼吸器をつげたまま腎臓摘出を行いました。・・・・・・日本でもかなりたくさん死体腎の移植が実際に行われております。そのうち告発を受けたのは、新聞報道されたり、マスコミで大ぎく取り上げられたところだけで、うまくすり抜けてきたところは、告発の対象になっておりません。私どもはやり方が下手だったと言えばそれまでですが、オーブンにするという原則に立ったつもりであります。

 他にも、多くこのような事例を読みましたが、出典をメモしていなかったために分からなくなっています。医師が騙したことを平然と認めているものもありました。

 一つ一つの事例について、根拠がないのならばないと、どうか教えてください。
 





   >>> 私自信は平気なんですが・・・ りりちゃん   -- 2006/06/02..
 
私自身は「脳死」になったとき臓器を提供してもいいのですが、(ドナーカードは持ているのですが、常時携帯はしていません。)主人が反対しています。

私自信は脳死やもう回復の見込みがないのなら生きる事にたいして執着はしたくないのです。入院もお金がかかるし、実際本人より周りの家族にその負担はかかってきます。家族の自由な時間も私が病院にいることによって少なくなってしまいます。

私が死んでもお葬式もしなくていいし、お墓もいらない。決まった法事もしてくれなくていい。法名もいらない。何も残してくれなくていいんです。だから必要な人がいれば私の臓器もどんどん利用してくれればいい。

ただ、私は一人じゃない。家族がいる。たぶん私のほうが長生きすると思うが、今の段階では主人は臓器提供を反対しています。また子供が成長したらなんと思うかこれもまたそのときの状況ですよね。
まあ、私に代わって命の引継ぎができるのなら・・・と思うのですが。

臓器提供というのは家族間は少なくほとんど他人からの提供となりますよね。立場や状況によっていろいろな思いが交錯する問題ゆえ、慎重になるべきですね。

子供や主人が脳死になって・・そのときにならないとわかりません。
ただ、自分のことは自分で考えると以上のような考えを持っています。

 





   >>> ドナーになるのは誰なのでしょう。 たんぽぽ   -- 2006/06/02..
 
 私は、臓器移植一般を否定しようとしているのではありません。現実をしっかり見据えた上で、双方の合意があれば、なされて良いと思いますし、それが可能になる法整備も必要だと思います。

 しかし、現状では、ドナーとなる方やご家族に、正確な情報が伝えられていないこともあるのではないか、と危惧します。

 息子が因幡の白兎になってしまった、と嘆いたお母さんのことに触れたのですが、少し調べると、事情は私が思っていたものとは違いました。

 お母さんは、献体を依頼されて、お役にたてるのならと承諾されたのですが、全く想像もしていなかった処置がなされたということです。
 以下に、「『脳死』・臓器移植に反対する関西市民の会」の「『ご家族の強い希望で』発表のウソ」の一部をコピーします。


(1994年・平成6年10月の電話の一部)・・・略・・・息子が亡くなり寝台車で帰って来たときに、目から血が流れてました。そして、着物の合わせが縫うてありました。近所の人が息子の死顔を見て「おばあさん、これは、息子さんの顔やないよ。」と言う程に変わり果てておりました。

 いつか(コーディネーターの)湯浅さんが来たら、いったい何々を取ったんか、聞いてみようと思てました。そしたら、心臓の弁二つ、腎臓二つ、耳の骨、肝臓、角膜二つ、葉書大36枚分の皮やて、言いはりました。まさか、目や皮までとは夢とも思わず、それやったらほとんど全身の皮、まるで因幡の白ウサギやと、人間のすることやないと思います。

 湯浅さんが家に来はるたびに、「いいことしたんやでーおばあさん」と。でもね、息子の臓器をもろた人が80まで生きられるんやろうかと思います。(臓器提供の承諾書を書かされたとき、主治医の)㈵先生はペンペンと丸をしはった(丸されたのは肝臓、腎臓、角膜、耳小骨、心臓弁、皮膚、血管)。大きな家の息子やったら、取ったでしょうかねえ。お風呂屋へ行っても、「あのおばあさんは、こわい人や、息子さんの臓器をやって5,000万ももろたんやで」と陰口をたたかれます。お金は、誰からももろてません。でも、誰も信じてくれません。

 先生はあれだけ、「脳死や脳死や」と言わはったのに死亡診断書には喘息性蓄積(喘息の重責発作)と書いてはったんです。・・・略・・・(付き添いをしていた)娘から「お母ちゃん、どないしょう、献体やいうてはる。どう言うたらいい?」と電話があり、その時、戦争で今のハイラル(ロシアの際にある)から4人の子を背負たろうて、生きるか死ぬかの思いで日本に逃げ帰った時の事が頭をぐるぐるまわりました。ロシアの兵隊に殺される人も間近に見ました。

 あの地獄のような体験が重なって、息子がどうせ死ぬんやったら、もうええやろう・・・・・・と、人の役に立つならと(献体の求めに対して)「どないなとしておくなはれ」と言うたんです。それが、全身になってしもた。 (この気持ちを)どこへぶつけたらよいのか、日に日に憎悪が増してくる。・・・略・・・死を大切にしない社会は、生も大切にしない。

(1996年・平成8年1月の電話の一部)・・・略・・・ずっと前に太田先生(大阪府千里救命センター所長)から電話がありました。でも「おばあさん、今はね、おばあさんに会うことはできない。新聞やテレビが騒いでるからね。落ち着いたら会える時もあるから」と言うと切れてしまい、お礼の言葉もありませんでした。いまだに何も言うては来ません。臓器提供は私から言い出したんと違います。太田先生は、いっぺんそのことについて説明してほしいと思てます。

 (1996年・平成8年6月11日、臓器移植法制定にあたっての国会議員の勉強会に発言を依頼された電話の一部)・・・略・・・平成5年12月15日に書いた私の手紙を聞いて下さい。『今回の臓器移植法案は、息子のそれを無視してしまった。生も死も一人一人の人間の所有物である。・・・略・・・』。これをハンドバックに入れ、寂しいときは必ず見てます。太田先生は未だに一度も会ってくれないけど、私の命のあるうちにただ一言だけでいい、たくさん臓器を取らせてもらってありがとうございました、と言うてほしい。

 (承諾書にサインするとき)なんで、「目も皮も腎臓も肝臓も心臓の弁も、お母さんみなもらいますよ」と説明してくれはれへんかったんやろ。そしたら、私は、断われたかも知れません。私は足が悪うて毎日リハビリに行ってます。体が辛くて東京へはとてもよう行きません。国会議員の皆さん、この年寄りの話をくみ取って下さい

 本当に脳死だったのかどうかも疑わしい状況で、このようなことがあることも事実であるようです。本人やご家族が、理解し納得した上での提供であるのでなければ、決して許されることではないと、思います。
 臓器移植について、よく知らない人を、よく説明もせずに、ドナーにしてはいけないと思います。

 





   >>> たんぽぽさんへ。 トマトの気持ち   -- 2006/06/02..
 
脳死の問題、まとめて頂いてありがとうございます。
わたしも、自分の考え、気持ちと格闘しつつ、それとは別にまとめようと思っていました。

臓器移植を考えると、どうしてもそこに私も行き着きます。
なので、日本の今の状態では脳死判定に対してどうしても疑問符を持っています。これは、ドナーになる気持ちがあるか無いか?の想いとは別次元の問題だと私も思っています。
きちんとした救命医療、そして少なくともきちんとした脳死の状態があってこそ、初めて成立する臓器移植であるべきなのは、当たり前のことです。
その当たり前のことが今の制度の上に成り立っていないとすれば、乱暴な言い方をすれば、ドナーが少ないから、臓器提供をしてもいいと考えている人、家族のところから、ドナーを作り出すという暴挙である可能性もあると私も思っています。
そういったことも含めて、きちんとしたシステムという言葉を使っています。

ただ、全てが「こういった脳死となった方のいろいろな反応があるという事=蘇生する可能性がある=元に戻る=意識が戻り人間として生きることが出来る」ではないことだけは留意した上で見ていかないと、脳死は死じゃないではないか!生きている人から奪い取ってまで・・・とんでもない、という感情の部分の話に戻ってしまうことになると思います。

脳死を起こした方の大多数は間違いなく完全な死に向かって矢印が示されていることは事実だと常に意識した上で見ていかなければならないと思っています。

 





   >>> 私の死生観、脳死、臓器移植について2 maruka   -- 2006/06/02..
 
(つづき)

前置きが長くなりましたが、そのような死生観から、もし、私が本当に「脳死」と判定されたら、それを「死」とし、自分の臓器がまだ使えるのなら、使ってほしいと思います。そして、生きてほしいと。これはあくまでも、自分の死生観による自分の「脳死」と「臓器移植」に対する自分の結論です。

 しかし、もし、遺族が自分の両親で、その決断を下さなければいけない状況だとしたら、私の結論はその限りではなく、両親の気持ちにまかせたいと思います。親はきっと「娘は、天国に行っても、体が傷ついていたらかわいそうだ。だからそっとしておいてほしい」と絶対思うだろうなと思います。親より早く死んでしまうという最大の親不孝をしてしまった以上、さらに追い討ちをかけるような苦しみは与えたくない、というのが正直な気持ちです。たとえ、自分の意思が生かされないとしても。

 そして、遺族が自分の子どもだったら(もし、いると仮定して)、日ごろから自分の死生観を伝えておこうと思います。「私は、死んだら、天国でもなく地獄でもなく、あなた(子ども)が生きている限り、あなたの心の中で生き続けますよ」と。そして、「臓器提供の決断はあなたにとってつらいかもしれないけど、私の意思を生かしてほしい」と。

 逆に、自分の両親が脳死になったら、もう二人とも70歳をすぎているし、「三途の川」を信じている人たちなので、静かに死なせてあげたいと思います。そして、もし自分の子ども(いると仮定して)が脳死になったら・・・今は何も考えられません。そのときの子どもの年齢や意思の有無にもよるんだろう・・とは思いますが・・・やっぱり考えられない。その時の自分の気持ちに従うしかないんだろうなと思います。以上です。

 





   >>> 私の死生観、脳死、臓器移植について1 maruka   -- 2006/06/02..
 
トマトの気持ちさんが立てたスレッドの時から、ずっとこの議論を眺めていました。人はそれぞれの死生観、人生観に基づいて生きているのですから、トマトの気持ちさんに賛同して募金したい人はすればいいし、いやな人は無視すればいい。「脳死」を人の死として認め、「臓器移植」に賛成する人は、ドナーカードにその意思を表せばいいし、いやな人はいやだといえば、いい。自分の現時点での気持ちに素直に行動すれば、それでいい。正しい結論はそれぞれの心の中にあると思っています。

ただ、私は直接、医療に関わることはなくても、身近で移植医療の現場を見ている者として、医師の苦悩、患者やその家族の悲痛を見ている者として、ここに寄せられたレスの中にある、医療不信、臓器移植に対する偏見に対して、すごく悲しい思いをして読んでいました。

たんぽぽさんの「脳死判定を急ぐのは、新鮮な臓器が欲しいためであり、医療機関がドナーとなりうる患者の家族を騙すようなこともあるようです。」という伝聞調の意見に思わず我慢が出来なくなって、出てきてしまいました。

たんぽぽさんは、いろいろな著名な方の論文を参考にして「脳死」に対する不信感を述べておりますが、日本の脳死判定は本当に厳格なものです。脳死判定は決して急ぐことはありません。慎重に慎重を重ね、ほんのわずかでも手順にミスがあれば、もう一度はじめからやり直しです。患者を見守る医師は、最後の最後まで脳死に陥らないように全力を尽くします。また、現場には移植医療関係者はまったく立ち入ることができません。「脳死」と診断されてはじめて、移植コーデイネーターがドナーカードを所持していた患者の家族と接触します。決して医療機関側がただちに患者の家族に接触することはなく、まして「騙す」だなんてとんでもない!・・・(絶句)。

確かに、現在では、マスコミ報道によって、医療ミスが毎日のように取り上げられ、また、アジアの臓器売買など、医療への不信感を募らせるようなニュースを耳にすることはありますが、一部の悪質な医師、悪質な医療行為ばかりに気をとられないで、日夜、体力の限界と戦いながら、患者さんのために働いている医師の誠実さを、どうか、信じて欲しい。命を扱う医師という職業に携わる人の、そのプロ意識、絶対、自分の患者は死なせない、治してみせる、というその意識の高さ(これは、世界中の良い医師にも当てはまることですが)は、見ていて本当にすばらしいものだと感じています。移植を望む側、臓器を提供する側、どちらの医師においても、決して、患者やその家族を騙すような行為はない、と、私は信じています。少なくとも、「新しい命」を狂おしいまでに切望し、また、見つめ続けている、このサイトの人たちには、医師や医療に携わる人の誠実なプロ意識を信じてほしい、と思います。

私の死生観、脳死、臓器移植について。

私は、幼少の頃、お盆にお墓参りに行ったとき、そのお寺の内にあった「地獄絵」を見てショックをうけ、ずっと、大人になってからもその時の恐怖心から逃れられませんでした。だから、どんなお寺にいっても、それっぽい絵があるなと思うときは、息を殺して目をつぶってその場を立ち去ったりしていました。私のトラウマでした。

けれど、20代の後半に、脳死問題、臨死体験の取材に関わる仕事をしたとき、はっきりと「死後の世界はない」と確信しました。ゆえに「天国も地獄もない」。そして、「死んだら、すべて無」であり、「今、生きていることがすべて」であると思うようになりました。そう思うことでやっと自分のトラウマから解放されました。三途の川を想像するのも、今、生きている自分の心、先に亡くなった人が自分を待っていてくれると思うのも、愛する人が自分を天国から見守ってくれていると思いたいのも、今生きている自分の心であり、自分が生きている限りにおいて、亡くなった愛する人たちは、いつまでも自分の心の中で生き続けている。そう、だから、今、生きていることがすべて、なのだと。

 
 



 





   >>> 未久さんへ たんぽぽ   -- 2006/06/01..
 
 未久さん、ご返信ありがとうございます。

 未久さんのおっしゃることは、よく分かります。まさに、それが人情というものでしょう。

 しかし、もし、未久さんのお嬢さんが臓器移植を希望し、億単位の寄附を受けて、脳死判定を受けた子供さんから移植を受けて命を救われた場合、どうですか。未久さんならドナー登録されるのではないでしょうか。

 やはり、それが筋だと思うのです。私は、臓器移植には賛成ではありませんが、自分の子供を救ってもらった場合、必ずドナー登録をし、脳死段階で自分の体を役立ててもらいます。脳死と判定されたお子さんから臓器をいただいたのなら、自分の子供が脳死と判定されたら、必ずドナーにします。

 そういうことに関しては、やはり筋を通すべきだと、私は思います。


 日本国内で、「脳死した」と判定される子供からの臓器移植を可能にしようとするなら、当然、国内で臓器提供者を探すことになります。

 未久さん、もしお嬢さんが「脳死」と判定された場合、まだ心臓が動いている状態で、よその苦しんでいるお子さんに、臓器を提供されますか。
 自分の子供が生死の境をさまよっているときに、そして、たとえ脳死だと言われたとしても体は生きているのに、諦められますか。

 無理ですよね。

 自分の子供の死を受け止めることだけでも精一杯なのに、移植を待っている子供さんのために死期を早めるなんて、できませんよね。

 私は、日本における子供の臓器移植を推進していこうとするのなら、もらう側だけではなく、与える側にも立って考えなければならないと思うのです。

 もう少し、この問題について考えたいと思います。

 不妊治療についてですが、未久さんがなさった治療で、誰か苦しんだ人がいるでしょうか。
 いたとしたら、未久さんだけですよね。痛い思いをしたのも未久さんだけですよね。

 そういうことと、人の死を前提とした医療とは別に考えるべきではないでしょうか。
 
 





   >>> 身勝手で個人的で出口の無い意見ですが 未久   -- 2006/06/01..
 
何が正しいのかすら、考えも及びませんが、あくまで身勝手な個人的な気持ちを
伝えさせて下さい。そこには全く出口も糸口も無い事をご了承下さい。

私はドナー登録を潔く尊い行為と思います、が私はしていません。
理由は単純です。決して仏教心も無く心霊も感心はありませんが、私も黄泉の国に行ったら、
この姿のまま先きに行った愛する人たちに会いたいからです。
前にも書きましたが、亡くなった父は長い病で臓器提供の対象にはなりませんでしたが、
もし訪ねられたら同じ理由で断ったと思います。
一方で、もし逆の立場になったら、もし娘の命が、臓器提供によってのみしか助からない
となったら、倫理も何もかも考えずに、移植の道をがむしゃらに奔走すると思います。
身勝手です。でも愛する者と生きる、その命を守るって、そういう事ではないでしょうか。
その身勝手さはどんなに避難されても揺るがない愛情のなせるものと、私は勝手ながら
思います。他のお子さんから提供された命の代償を深く思いやる事は、その時には私には
出来ない、と思います。娘の命に結論が出て、良い結果でも悪い結果でも受け止められる様に
なり、自分を取り戻した時に、始めて出来るかもしれません。

では移植自体に関して。医学の進歩の善し悪しは、未来の人類しか証明出来ないのでは、、。
人間の自然な死を受け止めてそれを尊重する、というご意見、理解出来ます。
では人間の誕生はどうなのでしょうか?我々が挑んでいる、人工授精は?
20代の頃、始めて人工授精、試験管ベイビーと言う言葉を聞いたとき「そんな風に
して産まれた子供は可愛そう」と思いました。
でもそれから20年、私は医術の最高の技術によって我が子を授かりました。
そしてそれを心から感謝し、誇りに思っています。

私の書き連ねている事には、社会的な意見も、常識に基づいた発言も何もありません。
個人的な感情ですから、回答に繋がるような事も何も言えません。
でも個人が真剣に命の尊さを考えるとき、そこに大きな間違いは無いのではないかと思うのです。
こういった意見の交換の場は、重要な機会とも思います。
でも書き記す言葉には限界があります。誤解も生まれます。
(私も過去に何度か経験しましたから)誰かが謝罪/弁明をしなければならない様な形は出来る
限り避けたいですね。(きっと誰もそんなつもりは無いのだと思いますが)
生意気な発言に受け取られたら、ごめんなさい。
 





   >>> ドナーになるということ たんぽぽ   -- 2006/06/01..
 
 ドナーになるということはどういうことなのか、少し考えてみたいと思います。
 まず、ドナーになる意志表示をしている場合、脳死になる前からドナー管理される可能性があるようです。
 次に挙げるのは、「『脳死』・臓器移植に反対する関西市民の会」のホームページにある「脳死になる前から始められたドナー管理」の項目からの引用です。

法的脳死または3徴候死が確定していない時点で、ドナー管理をすることは非合法であることを冒頭に述べたが、藤田保健衛生大以外の施設や医師も、ドナー候補者発生の早い段階からドナー管理を推奨したり、現行の粗雑な脳死判定も無視して「すべての脳幹反射が消失した時点をもって脳死になった」と早期の脳死判断をしている。

乾 健二(京都大学大学院医学研究科器官外科学講座呼吸器外科学):本邦における肺移植の問題点—システムについての検討—、日本呼吸器外科学会雑誌、16(3)、119、2002 
 脳死下臓器提供可能な4類型病院の数を増やすことが重要と考える。 臨床的脳死と診断されてから第2回脳死判定後の移植実施施設への連絡までの時間が長いため、その後の作業の時間的余裕がない。仮に、1回目の脳死判定後に移植実施施設に連絡することが許されればこの問題はかなり軽減される。 marginal donor を利用可能にしてゆくシステムに欠けているため、さらなるドナー臓器不足となりやすい。このような状況を打開するためには、例えばドナー管理の専門家を養成し、ドナー候補発生の早い段階から適切な患者管理を行なうことが重要であると思われる。
 以上の3点を、脳死者の意思を尊重しつつも倫理的問題やプライバシー保護の問題をクリアする形で解決することが日本の移植医療の今後にとって重要であろう。

伊達 洋至(岡山大学医学部第二外科):生体肺移植での摘出肺の評価、臨床呼吸生理、33(1)、71−78、2001
 p75以降の質疑応答において、千葉大学医学部呼吸器外科の関根 康雄氏は「肺の保護というのは脳死になってから始まることではなくて、搬送されて治療が始まった段階でもうすでに肺のプロテクトを考えた治療がなければいけないということがよくわかりました。そのためには、やはり集中治療の先生とかとの共同研究者やスタッフのディスカッションが必要ですし、ここにいらっしゃるような最先端の病院だけが donor提供病院になっているわけではないので、そういうのをもうちょっと啓蒙して、donor提供病院のレベルで十分やっていけるような体制が必要であると思います」と発言した。

 「愛ですか?脳死臓器移植」というホームページには、脳低温療法によって脳死寸前の患者が助かっているという記述があります。
㈰脳低温療法で「蘇生限界点をはるかに越えた脳死寸前の患者」が助かつている。柳田邦男氏が書かれた「脳治療革命」(「月刊文芸春秋」1997年4月号)は、脳低温療法のくわしいレポートです。          

㈪生還(社会復帰)した「脳死寸前の患者」は、厚生省脳死判定基準では「脳死」だつた。

㈫「全脳の機能が不可逆的に停止する」蘇生限界点を前提とした脳死判定基準では、「脳死寸前」と「脳死」の判別は不可能。

㈬脳死判定基準に依処する臓器移植法案の「脳死体」には、「脳死寸前の患者」も含まれる。

㈭全国の救命救急現場の早急な整備なしに臓器移植法案を成立させることは、年間数千人に及ぶ「脳死寸前の患者」を死に追いやることになる。

1994年12月放映のNHKスペシャルで、日大板橋病院の林成之教授による「脳低温療法」のルポルタージュが報道され、遠藤ふじ子さんという重症な頭部外傷の方が助かつている事実が紹介されました。また今年に入っての放映では、75名中56名が生還し、この中には木下ひでおさんという重症なクモ膜下出血の患者さんも紹介され、その後無事に家に帰られるシーンもありました。

 知人は、クモ膜下出血でほぼ脳死状態(脳死と告げられたかもしれません)になり、ご主人には臓器提供が求められたそうです。ご主人も、他の人のためになるならと承諾したい気持ちもあったのですが、どうしてもできずに治療を続けたら蘇生したのです。 知人には、身体にも精神にも、後遺症は残っていませんでした。
 患者中心に治療を尽くせば、臓器は使いものにならなくなります。ドナーになる意志表示をしていたら、脳死の可能性がでたところで、患者ではなくドナーとしてみられ、治療の対象は、その患者本人ではなく、移植を待つ人になってしまうという現実があります。
 循環器学会の臓器移植のパネルディスカッションで、各会員に子供にドナーカードを持たせているかどうか聞いたところ、誰一人もたせていなかったとあります。
 本当に、ドナーになる意思表示をしても、治療は十分になされるのでしょうか?
 





   >>> 脳死は人の死なのでしょうか たんぽぽ   -- 2006/06/01..
 
 このスレは、トマトの気持ちさんへの返信としてたてたものですが、脳死問題、臓器移植問題を考えるものとして、議論できればと思います。

 というのは、多少調べていくと、どうしても納得いかないことが多々でてきたからです。

 脳死と臓器移植がセットになる場合、多くの問題が生じます。

 脳死判定を急ぐのは、新鮮な臓器が欲しいためであり、医療機関がドナーとなりうる患者の家族を騙すようなこともあるようです。
 「『脳死』・臓器移植に反対する関西市民の会」のホームページに問題となることがらがまとまっています。

一つには、脳死者は創られるという問題があります。一例として次のような事例が報告されています。

2001年8月17日に新潟市民病院において脳死臓器摘出(第17例目法的脳死判定)された40代男性は、前庭反射と咽頭反射がありながら、臨床的脳死診断の約9時間前、法的脳死判定確定の約26時間前から、臓器摘出目的の昇圧剤投与がなされた。

二、脳死状態であるにもかかわらず、心臓死したと偽ることがある。一例として次のことが挙げられます。

1997年9月29日、東京ステーションホテルで座談会“臓器移植法の成立と今後の臓器移植の問題”が開催され、太田 和夫氏(太田医学研究所)は「1982年に脳死で臓器提供をしてくれるという施設があり、これを受けて脳死者からの腎臓移植を行ないました。実質的には百数十例ぐらいやりました」と述べ、「心停止後の臓器提供」と称して脳死臓器摘出を多数行なったきたことを自ら発言した。

三、脳死と判定されても、十数年生きている例もありますし、ラザロ徴候と呼ばれるような、単なる反射とはいえない動きもしばしば見られるそうです。たとえば胸の前で手を組み祈るような姿勢をとるなどというものです。
 脳死者から臓器を摘出する際、麻酔をしなければ手術が困難なほどに動くため麻酔をするなりモルヒネを打つなりするそうです。臓器の状態を保つため、麻酔なしに手術をしたところ、暑くないのにドナーの顔に汗がふきでて、冷や汗か油汗としか考えられなかったという報告もありました。
 脳死は人の死といいますが、心臓は元気に動き体は温かく、ときには複雑な動きをする人間を、焼却炉に入れることができるかという問いかけもありました。

以下、森岡正博氏の「日本の『脳死』法は世界の最先端」から引用します。

しかしながら、脳死になったら「やがて」心臓も停止するというのは事実に反していることが、一九九八年に医学的に明らかにされた。脳神経科学のもっとも権威ある雑誌Neurology(1998,Dec.)に、UCLA医科大学のD・A・シューモンが「長期にわたる脳死」という論文を発表して、関係者の話題をさらった。彼は、過去三〇年間の医学文献に現われた脳死についての記述を徹底的に調査し、医学的なデータの裏付けが取れるものを厳選して、脳死判定から心臓停止までにかかった時間を調べた。その結果、一七【319】五例の脳死患者(原文でもpatient=患者と書かれている)の心臓が、少なくとも一週間以上、動き続けていたことが分かった。そのうち、八〇例が少なくとも二週間、四四例が少なくとも一ヶ月、二〇例が少なくとも二ヶ月、そして七例が六ヶ月のあいだ心臓が動き続けていた。さらには、二年七ヶ月が一例、五年一ヶ月が一例あり、最長では一四年五ヶ月というケースがあったのだ。

一九八九年、ベルギーのアントワープ病院のL・ハイテンスらがJournal of Neurology(vol.71)に、五一歳男性のラザロ徴候について報告した。このケースでも、脳死状態の患者は自発的に両腕を持ち上げ、首までもっていき、それから元の位置に腕を戻した。注目すべきは、その動きのあいだ、脳死患者の血圧は上昇し(230/120mmHg)、心臓は一分間一五〇回の鼓動を示し(頻脈)、顔の紅潮が見られた。何の刺激もないのに、背中を定期的に弓なりにした。これらの動きは、人工呼吸器を取り外してから、二・三分後に始まった。このケースを見ると、ラザロ徴候が、単なる「脊髄反射」の一言で片づけられないことが分かる。神経反射、筋肉収縮、心臓の鼓動、血液循環動態はすべて相互関連的に生じており、まさにシューモンが言うところの、臓器の相互のやりとりによる統合作用が見られるからである。

四、脳死判定後、復活することがある。

脳死判定後(または臨床的脳死診断後)に、脳波や痛み刺激への反応や自発呼吸の復活、脳血流の再開、ホルモンの分泌、身長が伸びる、など医師の脳死判定・診断を明らかにくつがえす、自然治癒したとも言える内容的にも目立つ症例の報告が、日本国内だけでも 13例ある(以下の1〜9の詳細は各年齢別ページに掲載)。

このような事実を、まず認識しなければならないのではないでしょうか。
 





   >>> 匿名4さんへ トマトの気持ち   -- 2006/06/01..
 
匿名4さん、こんにちは。

載せないで欲しいといわれたら、どう思うか?との問いに、前のスレットは、おそらくそういわれないだろうと思います。

少なくとも、最初の私のスレット立ては、呼びかけであること、そして、皆さんが野次や罵声などの悲しいものではなく、それぞれが真剣に思ったことを率直に述べていらっしゃること、活動をすれば、賛否両論があることはしっかりと解っていらっしゃるのではないかと思っていることが、その理由です。

また、前のスレットを立てたとき、私はメールでお伝えしてありますので、ご覧になっていらっしゃるかもしれません。
この場所のアドレス、どういった掲示板であるか、私のハンドル等も簡単に紹介もしてあります。
HPからの抜粋をした以上、リンクフリーと書かれていても、どう使ったかを報告するのは最低限のルールだと私は思ってるからです。
 





   >>> たんぽぽさんへ ちかあき   -- 2006/05/31..
 
トマトの気持ちさんへ・・・のところに
横レスした上に、大きく勘違いしながら書き込んでしまって
すいませんでした。

亡くなってからの解剖も絶対に嫌だ!
って思ったくらいですから、
まだ生きている段階でドナーに・・・と言われたら、
私ならもっと嫌です。
私の息子は障害児でしたが、生活は決して楽ではありませんでしたが、
どんな身体であっても生きていてほしい・・・と
願いながら日々息子を暮らしてきました。
息子は残念ながら亡くなりましたが、仮に命が助かって
それが脳死状態であっても、そばに暖かい生身の息子の身体が
ある限りは、ずっと息子の介護をしたでしょう。
息子は亡くなる直前、医師に心臓マッサージをうけてうました。
その時は下血も始まっており、もうこれ以上はもたないという状態でした。
もう楽にしてやりたい・・・
そう思ってマッサージをやめてもらいましたが、
心臓が止まるまで数分かかりました。
息子が死んで、身体が冷たく固くなっていくのをじっと
見つめていて初めて、
(マッサージを止めるんじゃなかった・・・
 どんな姿でも生きれるんなら生きてほしかった)
と思ったのです。もう手遅れでしたが・・・
あの時の辛さ悔しさと後悔は、一生私の心から消える事はないでしょう。
脳死といえど、まだそこに命は生きていたのだから。
死んでいく者の裏側でその人の死によって生きられる命がある。
その先に続くそれぞれの家族の未来は天と地の差です・・・
 





   >>> サリー紫さんへ たんぽぽ   -- 2006/05/31..
 
 サリー紫さん、ご返信ありがとうございます。

 サリー紫さんのおっしゃることは、よく分かります。臓器提供をしたお子さんを、傷ついていて可哀そうだと思ってはいけないのでしょう。それをどう感じるか、そこにも文化の違いがあるのかもしれません。

 十字架上のイエスを信仰の対象とする方々の場合、その痛ましい姿こそが救世主であることの証であり、その姿こそが輝きに満ちたものと感じられるのではないでしょうか。

 ネットで調べた程度のことしか分からないのですが、臓器提供された息子さんを見たお母さんが、「息子は因幡の白兎になった。」と嘆かれたという記述がありました。皮膚や眼球を提供されたので、痛ましい姿になられたのでしょう。

 しかし、それが生前の息子さんの意志であるなら、そのような願いをもたれた息子さんの姿は、痛ましいからこそ輝かしいものであるのでしょう。

 頭では理解できますが、おそらく、私には自分の家族のこととしては受け入れがたいのです。
 それでも、成人した家族が、強く提供を望んでいたら、勿論その意志を受け継ぎます。しかし、小さな子供の臓器や体の部分を提供することは、私にはできないでしょう。

 そういう決断をされた方々をご立派だと尊敬しますが、私には無理だろうなあと思います。そこには、やはり文化の問題もあると思います。
 





   >>> 匿名4さんへ たんぽぽ   -- 2006/05/31..
 
 匿名4さん、ご返信ありがとうございます。

 多少誤解がありますので、まず、その点を明らかにしたいと思います。
 その箇所で書いたことは、トマトの気持ちさんに読むように勧められたコラムへの感想です。

 私が「ドナーになることを求められている」と言った方は、自分の子供の臓器移植を希望して、寄付を集め、それを成功させた方のことです。決してドナー登録を勧める人一般のことではありません。

 自分の子供が移植によって助かったのは、ドナーがいたからです。だからこそ移植医療を推進しようとされているのでしょう。そして、他の方にドナー登録をお願いしておられました。それは、親として普通の感情だと思います。その後に続く子供たち、移植医療によってのみ助かる子供たちへの思いから、そうおっしゃっているのでしょう。

 一般の方に、その方がドナー登録を勧めているからといって、自分の子供のドナー登録をしなければいけないなどとは、申しません。しかし、他の子供の臓器を提供してもらって自分の子供が助かったのなら、そして、脳死を人の死であると認めて欲しいとおっしゃるのなら、自分や自分の子供が脳死状態になったときには、法律で認められていれば、臓器提供をするのが当然ではないか思います。他者を説得しようとしながら、そういう意志を明確に示されないのは不思議でした。提供を希望する側の人間としても語ってもらいたいと思うのです。
 
 臓器移植を推進していきたいという場合、どうしても、臓器を求めている人の立場から、こんなに辛い、こんなに可哀そうだと、協賛を求めることになりがちです。
 しかし、その裏で、臓器を提供する側には、どれほどの苦しみを背負わせることになるか、その事実をきちんと認識しなければならないと思います。

 ですから、臓器移植を推進していこうとするのなら、移植を待って死に瀕した子供が苦しんでいる様と移植後の元気な姿を見せて、臓器移植の明るい面だけを見て運動を展開するだけではいけないと思うのです。

 臓器移植をするためにはドナーが必要なのですから、自分や家族をドナーにできるかどうかということを考えなければいけないと思います。

 自分や自分の家族が生死の境をさまよっているときに、手術室では臓器摘出の準備がなされ、それを運ぶためにノヘリコプターが待機しているという現実に耐えられるかどうかを考えなければならないと思うのです。

 臨終を告げられたとたん、最期を迎えた家族に感謝を述べる時間も、集まった親族と和やかにその魂を見送る時間も与えられずに、遺体を手術室に運ばれることに耐えなければなりません。

 ドナーはどこか別のところにいるだろうという感覚で推進すべきものではないと思うのです。

 しかし、そういう現実を認識し、覚悟した上で、他者に愛の手を差し伸べるような方は、いらっしゃいます。そういう方を心から尊敬いたします。

 人の死を前提とする医療を推進していこうとするのなら、私は、提供する側にたった運動にならなければいけないように思うのです。
 たしかに、自分や家族の臓器を提供することは辛い、でも、苦しむ人を助けたい。そういう思いから広がる運動なら、それは愛に満ちた運動であると思います。

 私は、臓器移植を希望する方を非難するつもりはありません。それは当然の人情でしょう。そして、提供の意志をもつ方がいらっしゃるのなら、手術が成功することを願います。それに賛同して寄附するかたがいることが悪いことだなどと思いません。
 他者の苦しみに共感し、助けたいという気持ちをもつことを批判する気持ちは全くありません。

 このスレッドは、トマトの気持ちさんへの返信であるとお考えください。
 

 
 





   >>> 考える機会をありがとうございました サリー紫   -- 2006/05/31..
 
たんぽぽさん、こんにちは。
いつもたんぽぽさんの投稿に、励まされ、勇気付けられ、考えさせられています。
今回、トマトの気持ちさん宛ての呼びかけでしたが、私も一緒に考えさせてください(押しかけですみません)。

ドナー登録の自体は、米国の場合、免許証の更新時に、「ドナー登録をする、しない」を選択し、 丸で囲んで、はい、おしまい、なんですね。
ちなみに、私自身の免許証は「臓器提供=する」となっています。

ちょっと話がずれるかもしれないのですが、火葬が大多数な日本に比べ、
キリスト教徒が多い米国では、棺に入れて土葬というのが一般的な埋葬方法なんですね。
もちろん土地が豊富、という事もありますが、宗教的な背景がそこにはあります。
私の主人の実家はカトリック系のキリスト教なのですが、義母は
「”最後の審判”が行われる時に、身体が残っていなければ、天国で永遠の命をもらえなくなるのよっ!」 という理由で火葬に大反対です。
私と主人は、「自分達が死んだら火葬にして、灰は、半分は一緒に骨壺にでも入れてもらって、残りはお気に入りの場所にまいてちょうだいね。」という意見です。

そんな私でも、たんぽぽさんのおっしゃった「盲目で臓器を抜き取られたわが子が、一人さびしく三途の川を渡る光景しかうかばないのです。 そして、そのような状態で死ぬと、来世において、その失った部分に障害をもつように思ってしまうのです。」というお気持ちはよーくわかります。
小さな子がよたよた歩いている姿がありありと浮かんできて、涙がこぼれてしまいました。
でもね、私、きっと神さまは、人様を助けるために自分の一部をあげたやさしいこの子をきっと救ってくださると思うんです。
そして来世でも、叡智に富んだやさしい子に生まれ変わるような気がするのです。
お釈迦さまだって、イエス様だって、アラーの神だって、親と子の、究極の犠牲をきっとほめて下さるんじゃないかなぁ。。。
すみません、かなり本題からずれてしまいましたね。
「臓器提供=する」を選択した私ですが、さすがに、チベット仏教の「鳥葬(魂のなくなった肉体を最後の功徳として鳥に布施する)」までは、考えられません。
これはやはり、文化の違いですね。

なんだかとりとめのない話しになってしまいましたが、
トマトの気持ちさん、たんぽぽさん、考える機会を与えてくださってありがとうございました。
 





   >>> ちかあきさんへ たんぽぽ   -- 2006/05/31..
 
 ちかあきさんのスレッド読ませていただいていました。

 お子様のご冥福を心からお祈りいたします。

 私も、今回のトマトの気持ちさんのスレッドから関心をもって多少調べただけですが、臓器移植というのは、提供者の死後に求められるものではありません。そんなことをしていたら、臓器は使い物にならなくなります。

 患者が今まさに生死の境をさまよっているときに、勧められるものですし、まだ生きているうちに、ヘリコプターが待機して、臓器摘出を待っているもののようです。

 私は、家族では父しかなくしていませんが、私には父の死を多くの人間が今か今かと待っている状況など耐えられません。
 ですから、私には臓器移植の提供者になることも、家族を提供者にすることもできません。私には、そのような苦しみに耐えるだけの人格がありません。

 ただ、そういう苦しみを乗り越えて、他者の苦しみに共感し助けようとする人はいます。そういう人を私は尊敬しますが、私には辛すぎてできません。

 本当に難しい問題ですね。

 また、色々と教えてくださいね。
 





   >>> 分からないこと 匿名4   -- 2006/05/30..
 
たんぽぽさん、こんにちは。
分からない部分を素直に質問させていただきます。

ドナー登録を求める人は、その夫婦と子供の臓器を提供する意思を持つことが必要とおっしゃり、一方で、
>ドナーになりたいという人には敬意を表します。子供の臓器を愛をもって他者に提供する人を尊敬します。
と、おっしゃっています。

ではドナー登録をしている人が今まさに臓器移植で子供を助けたいと
希望しているとしたら、その人たちのことを、たんぽぽさんはどう思われますか?それは当然のことで、皆そうあるべきとお考えですか?

あるいは○○ちゃんを救う会に寄付するとき、臓器移植という難しい問題について、みんなが明確な意思を持たなければいけないとお考えですか?
または、別の趣旨のものに寄付するとき、そのことについて自分で明確な意思を持たなくてはいけないとお考えですか?

私は正直、なにかに寄付するときに、そんなに深く考えたことがありません。
阪神大震災の時には寄付しましたけど新潟地震のときにはしませんでした。
そこに明確な理由はなく、タイミングと「なんとなく」としか、言いようがありません。

何かに寄付をするとき、お金の使い方やその他の考えなくてはいけないことは主催者に任せるというのは無責任でしょうか?
それとも、トマトの気持ちさんのように「臓器移植を推進する活動」をされている方には明確なドナー登録の意思が必要だが、寄付だけをする人にはそこまでは求めないということなのでしょうか?


それからトマトの気持ちさんにお聞きしたいことが一つあります。
もしも万一、○○ちゃんを救う会のご両親から「よその掲示板に、うちの子のことを載せないでほしい」と言われたら、どのように思われますか?
私はそこに、ひとつのポイントがあるような気がしています。
 





   >>> こんばんは ちかあき   -- 2006/05/30..
 
我が子が熱を出し苦しそうにしていたら、親なら夜も寝れず
心配で看病するでしょう。

我が子が怪我をし、血だらけになったら、あわてて病院に行き
治療してもらうでしょう。
その時に痛みに泣き叫ぶ我が子を見て、親なら涙がでるでしょう。

上記のような日常よくありえる光景でさえ、
親なら我が子を思い、重症なら身も心も張り裂けんばかりに
苦しむでしょう。

我が子の死はそれ以上、想像以上です。
突然の死なら、親は現実を受け入れられないまま、
子供のお葬式を準備しなければなりません。

人が死んだ後、身体をきれいに拭きます。
子供だと、親も一緒に拭かせてもらえます。
まだ暖かさが残る身体を
(よくがんばったね・・・もういたくないね・・・)
 ってすみずみまで綺麗にしてやります。

その時、息子は大学病院で亡くなったので、
はっきりとした死因が知りたいと、解剖を聞かれました。

もう死んでしまったけれど、もうこれ以上、息子の身体に
痛みを与えたくない・・・という気持ちの方が強く、
解剖は断りました。

日本に子供の臓器移植が許されていて、
息子の死の直後に訪ねられたとしても、
お願いだから、このまま綺麗なまま、早く家に帰らせて・・・
って言っていたと思います。

でも、これはあくまで私が息子の死の直後に感じた事です。
子供を亡くされた親御さんの中に、
(ぜひドナーとして我が子を・・・)
と思う方もいらっしゃるでしょう。
そして、臓器移植しか助からない命もある・・・
両方の思いがある時に、それが日本ではできない・・・というのは
とても残念な気もします。

とても難しいテーマですね・・・