私の出産体験記

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私の出産体験記

明治生まれのおばあちゃんのお産

〜お産昔話〜


人に歴史があるように、社会に時代があるように、お産にも時代の変遷や民族や社会におけるお産文化の移り変わりというものが、ちゃんとある。

明治生まれの私の祖母(母方)は、大正末期に結婚し、次々と子どもを六人産んだ。その当時、女たちはたくさん子どもを産むことがあたりまえとされていたから、六 人という数はけして多産というわけではない。残念なことに、そのうち二人は、1歳の誕生を迎える前に死んでしまったという。今では、考えられないことだけれど、これもまた、その当時ではめずらしいことではなかったから、「赤ちゃんたちは、不幸にも死んでいく運命にあった」と、家族は考えていた。

母は、昭和六年(一九三一年)、東京にあった自宅で生まれた。都会ということも あって、核家族で借家の狭い家だったので、姑にいじめられるということもなく、プロの助産婦を呼んで、畳の部屋でお産をした。
「自宅の畳の上」にこだわってしまうのは、大正時代くらいまで、地方では、女たちは畳の上でさえ産めないことが多かったからだ。はるか昔の日本では、「産小屋」 というものがあって、自宅から離れた村のはずれに建てられたその小屋で出産していた。日本書記にも、海岸の「産小屋」で神が生まれたという記述があるほど、「産小 屋」の歴史はとても古い。
女たちが「産小屋」で出産していた理由は、いろいろ言われている。ひとつには、 お産につきまとう不浄感だ。昔は血液を忌み嫌って、女たちは生理中も、お産のときにももちろん「産小屋」に隔離されていたのである。けれども、もっともっとさかの ぼって、日本が母系社会だったころのことを考えれば、お産が不浄であるという考えはなかったとしか思えない。これは、時代とともに、社会が男性中心に考えられるよ うになってから、作られたとってつけた理由ではないかと思う。

もうひとつ言われているのは、「もののけ」の存在だ。赤ちゃんは、いつの世も弱く 死ととなりあわせだった。かつては「七歳までは神の子」と言われたほど、七歳までは死がとても近くにあった。とくに、お産やその直後になくなることが多かったか ら、感染による病死という概念がなかった時代には、「もののけ」という目に見えない魔物が、赤ちゃんのいのちを狙って、奪いにくると考えられていた。 この「もののけ」に獲られないように、出産場所を村のはずれや、わざわざ川向こうに建てて、陣痛が始まった産婦の身を隠す、という意味から「産小屋」を建てたと も言われている。
実際、「産小屋」は女だけが集う憩の場だったとも言われている。生理や出産で女 たちが安心して身を寄せるコミュニティーでもあったのだ。昔の暮らしは今のように 、楽ちんというわけではけしてなかったから、生理といえども、妊娠中であろうと、村の女たちには日々の労働が待っていた。そんな環境の中、「産小屋」へ行けば、骨休めができたのだろうと、想像できる。彼女たちは、陣痛が始まると「産小屋」へ行 って、村の女たちに助けられながら子どもを産んだ。産後も、その小屋で赤ちゃんといっしょに、いわば隔離されることによって、村人や家族からの感染を防いだり、ゆったり休養することもできたのだろう。
そんな「産小屋」も、大正時代くらいから減りだして、お産は自宅へ移っていく。 でも、自宅に移ってからも、「出産は不浄」という概念はなかなか拭い去ることはで きなかったらしく、お産はまず、庭の小屋や土間で行われていた。しばらくして、やっと床の上に上げてもらえるようになってからも、納戸や奥まった座敷で出産が行われることが多かった。
姑が厳しくて、「土間で産みなさい」と言われたり、「産後のご飯も家族とは別にされた」というようなケースが、地方によっては戦後まで残っていた。やはり、女たちにとって、出産の場は自分や赤ちゃんのからだばかりでなく、家という制度の中で 、嫁というポジションそのものが過酷だった時代があり、しかも、そんなに昔のことではなかった。

さて、畳に上でどうどうと出産できた祖母だけれど、当時の自宅出産が今のそれとあきらかに違うのは、夫のかかわりである。かつて「男子厨房に入らず」という言葉 があったくらいだから、男が「産室」にはいることはまれ中のまれだった(地方によっては、夫が陣痛の産婦のからだを支える風習のあったところもあるにはあったが)。陣痛が始まると、助産婦が呼ばれ、助産婦が到着すると、家族は全員、その部屋か らおいたてられるように出された。それでも、そんなに広い屋敷のような家でなければ、産婦のうなり声や、生まれた赤ちゃんの産声が聞こえてくるから、とくに上の子 どもたちとって、母のお産はふすま一枚隔てて、すぐそこにあった。
私の祖父は明治の男子を誇るような頑なな人で、女の生業にはまったく関心をしめさないようなステレオ・タイプの男だった。母の話によると、よくは覚えていないものの、弟や妹が生まれたその日も、家にいたかどうかは記憶にないらしい。
「お産は 女のもの。男には関係ない」と胸をはっていた。後年になって、祖父と祖母がとし老いてからの私の記憶でも、祖父が祖母を直接いたわっていた様子の記憶はほとんどない。「男は外で働き、金を稼いでくれば、外で女を作ろうが、男の甲斐性なのである。女は三歩下がって夫に従い、家で子を産み、育てるのが仕事である」というような考え方が、まともに実行されていて、だれもそれを咎めようともしなかったのだから凄い。

今でこそ、「出産は病院で」というのがあたりまえのようになっているが、長い歴史の中で人々が病院で生まれるようになったのは、ごく最近のことに過ぎないのだ。 昭和二十二年〜二十四年のベビーブームの頃でさえ、自宅出産がまだ主流だった。 現在の倍ほどの赤ちゃんが生まれていた当時、その九割以上を介助したのは、産婆と呼ばれていた開業の助産婦だった。
その後、昭和三十五年に自宅分娩と施設分娩が半々となり、五年後の四十年には八割以上の出産が施設へ移行した。それにともなって助産婦もまた、施設で働く人が多くなり、さらに出産介助者は助産婦から産科医へと変わっていった。


妊娠・出産、母乳ワード101妊娠・出産・産後ワード101
安産と楽しいマタニティライフに役立つ101用語を解説。 監修/医学博士・産婦人科医師(故)進 純郎先生(監修当時)葛飾赤十字産院院長





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