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障害児を育てている方へ   -- 2003/05/22 ..
 海外在住の方や世界を股にかけて仕事や旅行されている方などからすれば、乏しい私の海外体験の話です。
 今、障害児を育てている方、これからもしかしたらその親になるかもしれない方に聞いて頂きたい話です。
 私は胸を打たれたのですが、なんだと思う方もいるかもしれません。

 10年近く前、一緒に行こうよという健常者の友人がいて、ヨーロッパ4カ国の団体旅行に出掛けました。
 添乗員含め14人のアットホーム的な団体旅行でした。
 若い女性の添乗員は「障害もった人も一緒に旅したい」と友人と一緒に一生懸命車椅子を押してくれました。
 今も年賀状のやり取りをしており、今や彼女も3児の母。
 そしてパリで、スウェーデンのストックホルム大学に老人福祉の研究に留学し、あっちの男性と結婚して住み着いてしまった別の友人と待ち合わせし、数年ぶりの再会を果たしました。
 彼女曰く「日本人の団体旅行ほどみっともないものはない。
どうして一人で来なかったのか。海外旅行くらい一人でしろ」と。
 ひょえ〜。そんな殺生な。だれが私の車椅子をおしてくれるのさ〜。・・・と思いました。
 でも帰国後、むくむくと冒険心が湧いてきて、いっちょ、やったるかと、図書館でいろいろ情報を調べて準備。
 行き先はスペイン・マドリード。
 理由は写真で見たホテルのトイレが低くて使いやすそうが1番。
 他の国はトイレが高くて便座に座ると言うよりよじ登るという感じで大変だったから。マドリード市内の美術館を巡る程度の計画なら一人でも大丈夫かなと思ったのが2番目の理由。

 前置きが長くなりました。さてここからが本題です。
 各美術館になるべく近いホテルに宿泊し、第一日目は国立プラド美術館めざして出掛けました。健常者なら徒歩10分くらいですかね。あちらはバリアフリーが日本より遅れ、歩道の段差だらけです。でも全然困りませんでした。いつもだれかが後ろで車椅子を上げたり下ろしたりしてくれ、お礼を言おうと振り向くともう誰もいません。車椅子の私はリレーのバトンみたいに次から次に人の手によってプラド美術館にたどり着きました。
 1番のお目当ては「画家の中の画家」と称され、ゴヤやピカソも
お手本にしたという16世紀の宮廷画家ベラスケスの「ラス・メニーナス」。わがままな王女様のまわりに女官たちが困った顔でご機嫌とっているという有名な絵です。なんでそれがすぐれた絵なのかというと、その絵の中に国王夫妻を描いている途中の画家自身も描かれ、奥行きのある複雑な構成の絵だというのです。
 ふむふむこれがその有名な絵ねと、人だかりを離れ他のベラスケスの作品を見てまわり、あっと、2枚の絵の前で足を、いや、私の場合は車椅子を止めました。
 1枚は自閉症かと思う貴族の少年の絵。少年は微笑んでおりその微笑みは目に見えない風とたわむれ風に向けれらているよう。
 正気ではないことが伝わってくる絵でした。
 しかし少年の笑顔のなんとピュアなことか。
 自分自身の世界だけでなんと充足した喜びに浸っていることか。
 私はそのように感じました。
 もう1枚は、成長ホルモンの障害で背の低い方がいますが、
 昔そういう方達の一部は宮廷の王族の子女のお世話をしていたと思われます。そのような男性を描いた絵でした。
 運命と闘い、自己の尊厳を自覚しているかのような気高い表情でした。私はそう感じました。
 この2枚の絵は「ラス・メニーナス」に劣らない良い場所に飾られていました。このことにも私はとても感動しました。
 ベラスケスが評価される理由は絵画の構成・描写技術だけでなく人物の性格描写が特に優れたことでもあります。
 故に人間の本質を描く点で、ピカソなどは大いに勉強になったのでしょう。
 自身も貴族出身の宮廷画家でありながら、ベラスケスの描く王族貴族たちの顔つきは権力欲・傲慢・冷酷さが放出されています。
 ときに庶民を描いていますが、懸命に働く姿、楽しそうな談笑の様子が描かれています。
 16世紀の後世に名を残す画家が、障害者に暖かく人間として共感のまなざしを注いでいたという発見は旅の大収穫でした。

 そして5日間過ごしたマドリードでの最後の訪問先はソフィア王妃記念美術館。ここにドイツナチスの母国への爆撃を怒って描いたピカソの「ゲルニカ」の本物があります。国連にあるのはレプリカ。
 いななく馬、死んだ子どもを抱いて泣く母親。
 本物を目の前にし、その時私はピカソの怒りの筆のタッチまで感じることができたでしょうか。
 今、どんな思いでピカソがキャンパスに向かったか、改めて胸中を想像するのです。

 私が絵を見ている間、他の客は車椅子の前を通る人は誰もいませんでした。みんな後ろを通っていきます。こんな障害者に対してのマナーは初めてでした。
 日本の美術館ですと、ほとんどの人が車椅子を無視して前に立ちはだかってはばからないのに。


お返事ありがとうございます   海
障害者が積極的に街に出て楽しめる世の中に!   ちょこれーと
スペインより   osita
海さんへ   ドナルド
車椅子の視点   きょん




 

   >>> お返事ありがとうございます   -- 2003/05/22..
 
 きょんさん、一生懸命長いお返事を書いていただきありがとうございます。
 車椅子で良いことの一つはベビーカーや子どもとめの高さが近いことです。だからお店や道で赤ちゃんと視線を合わせることも度々。
 車椅子にとって不便なことはベビーカーにとっても不便だとは思っていましたが、実際に子をもつようになると、もっとその不便さがわかるようになりました。

 ドナルドさん、知的障害の方の方はもっと深刻だと思います。
 どうかその方達の代弁をできる限りお願いいたします。
 私も代弁をこころがけていきます。
 
ositaさん、マドリードで過ごした日々は私が障害という重荷を下ろして過ごせた人生初めての日々でした。
 日本では車も人も、老人さえもが車椅子より先に行かんとし、脇を無理にすりぬけようとするのですが、あちらでは車椅子より先を越そうという人はいませんでした。
 じゃまかと先を譲ると、返ってけげんな顔つきをされました。
 車も止まって車椅子が通り過ぎるのを待ってくれます。
 私の夢は今度はバルセロナのガウディの聖家族教会訪問、そしてグエル公園に息子を連れて行き遊ばせることです。

 ちょこれーとさん、う〜ん、まだまだ街中で障害者を見かける事ってすくないですか。以前よりは多いと感じているのですが。
 といっても私も出掛けるのが大変なあまりちゅうちょすることが多いのですが。
 貴女の言うように、障害者がもっと外出するようになれば人の偏見もなくなると思います。
 私もこれからもっと頑張って外出しますね。
 





   >>> 障害者が積極的に街に出て楽しめる世の中に! ちょこれーと   -- 2003/05/18..
 
海さん、素晴らしい旅を経験なさいましたね。
きょんさんのレスを読んで「そうそう!」とうなずいてしまいました。
ベビーカーですら街の中はとても不便なんです。
ちょっと違ったのは地下鉄の階段をベビーカーを持ち上げて昇ろうとしたときに
「手伝いましょうか?」と声をかけてくれる人がけっこういることです。
(私がチビだからかもしれませんが・・・)
小さな段差でひっかかるたびに、
これでは車椅子の方や、目の不自由な方はさぞかし大変だろうと思います。
これでは外に出かけるのも嫌になってしまうだろうな・・・。

先日都内のとある人気スポットで
車椅子の方とボランティアらしき人たちの団体を見かけました。
写真を撮ったりデパートの中を見て回ったり
普通に休日を楽しんでいるように見えました。
でもそういう光景って珍しいですよね。
障害を持った方たちが積極的に街に出ることができて、
普通の人と同じようにショッピングや食事や映画を楽しむことができる
そんな世の中になれば
きっと周りの偏見もなくなるだろうし
当たり前に手助けできるようになるのだろうと思います。
海さんのように行動力のある方なら旅行もできるけれど
なかなか出かける勇気がないっていう人が多いのではないかと思います。

日本が海さんが旅してきた国のようになるのは
ほど遠いかもしれませんが、
少しづつでも良くなるように
私にできることはないか、ということを考えていきたいと思います。
 





   >>> スペインより osita   -- 2003/05/18..
 
海さん、こんにちは。投稿が私の住む国、スペインのことだったので、思わず嬉しくなりました。

スペインに来てびっくりしたのは、いろいろな面で日本よりもずーっと遅れている?ことがたくさんあることです。
バリアフリーをはじめゴミ分別回収なんて、日本ではヨーロッパの先進国、ドイツや北欧のことがヨーロッパスタンダードのように報道されていたので、その遅れぶりに驚いたものです。

しかし、海さんのおっしゃる通り、バリアフリーの遅れに関しては、この国ではそれが人々の根っからの善意(と思っていないかも)で見事にカバーされているのも事実です。
子供が生まれてベビーカーで外出する機会が増えて、ほんとうにそう思います。いつも誰かが助けてくれます。

きょんさんの投稿にもありますが、ベビーカーで電車に乗っていいのか?エレベーターのない駅で、子供を抱っこしベビーカーをたたんで、荷物を抱えて階段を上り下りetc、スーパーの込み合う時間に買い物に行ってもいいものか・・。なんて議論を見るたびに、
そんなことを考えないといけないの!!とびっくりしてしまうと同時に、我が母国はなんて住みにくい国なのか・・と思います。

こちらに来て「寛容さ」「相手を尊重すること」「相手の身になって考えること」「思いやり」「助け合い」など、
日本でいやというほど「聞く」言葉を、実際に当たり前のように「実行」している社会に出くわしました。
なぜか皆が普通に「実行」しているのです。

日本はスペインより先に「器」は出来ていくでしょう。
「器」は使いこなす人次第で、有効活用されたりされなかったりしますよね。
せっかく海さんやその外の方々ががんばって獲得?されていく「器」、使う側の意識の改革も必要ですね。
といっても何をどのようにすればいいのか、私にはとても見当もつきません。なぜスペインの人たちが、こんなにも「優しい」のか、やはり教育でしょうか・・。わかりません。
肌で感じることはたくさんありますが、言葉にしてしまうと、なぜか言い足りないような感じがしてしまいます。

「高齢出産」の話題から、完全にずれた内容になってしまいました。しかし一母親として、普通より少し多くの「経験を積んで」母となった今、「命」のこと、そこから派生する様々な「人生」のことをより深く考えるようになりました。新しい命とその人生に対する母親の責任の重大さにも、時に不安になるほどです。

娘は「善意(?)を普通に実行する」ことができる人間に育ってほしい、と世話をしながら思います。私の責任です。
海さん、砂浜の一粒の砂・・かもしれません。でもやってみます。これからもいろいろなお話、お聞かせ下さいね。
 





   >>> 海さんへ ドナルド   -- 2003/05/17..
 
いつも海さんの投稿を色々な想いで読ませていただいてます。私は福祉施設で働いています。働いて初めて障害のある方と対等な関係で接することができるようになりました。少なくとも同じ価値を持った一人の人間として意識できるようになりました。それまでは言葉は悪いのですがかわいそうな人に何かしてあげる、という同情心というか傲慢な気持ちでいたと思います。障害者、特に知的障害者への周囲の理解は得にくく養護学校を卒業しても卒業後の行き場がほとんど無い状況です。
簡単に世の中の状況は変わらないけど、せめて普通に人間が持っている「思いやり」を障害のある方にも当たり前に表せる方々が増えることを心から願っています。うまくまとまらない文章でごめんなさい。
 





   >>> 車椅子の視点 きょん   -- 2003/05/17..
 
 海さんの描写が素晴らしくて、私もしばし旅行した気分になりました。美術館の様子も一緒にその絵を見ている気分になりました。

 さて、私も昨年高齢初産(40歳)、医師からもさりげなく染色体異常のスクリーニングを勧められたりして(受けなかったけど)、私なりに「障害」というものについてあれこれと考えた時期がありました。
 しかし、特にこれと言って問題なく生まれれば、喉もと過ぎて熱さ忘れる、のように、自分には無縁のことのようになってしまいました。(まあ、もともと物事をじっくり考えるタイプではないので忘れっぽいというか・・・)

 ところが、息子をベビーカーであちこち連れまわすようになってから(って、私は2ヶ月の時からそんなことしてるんですけどね)今まで気づかなかったことに気づいてびっくりすることが多いです。今までどうして気づかなかったんだろう、と自分にあきれるくらいに。

 ベビーカーで近所の歩道を歩いていると、たった2センチくらいの段差で車輪がつまずくことがあります。しかも、車の出入り口のために削られた歩道はあちこちが波打つように平坦でなく、ベビーカーは右や左にしばしば傾いた状態で押さざるを得ません。踏み切りで前の車輪がはまったこともあります。(それいらい、その踏み切りはベビーカーを持ち上げて渡ります)歩道のあちこちにはめられている格子状の雨水受けも、小さな車輪がすっぽりはまることしばしば。
 そして、歩道を歩いていると必ずといっていいほど、後ろから来た自転車に「チリン、チリン」とやられる。歩道を走っている自転車がおかしい、と思いつつ「ベビーカーは幅をとって邪魔なもの」という意識を持った人の多さに驚きます。
 そういえば、電車に乗る時、ベビーカーをたたむか、そのままの状態で乗るか、と時々問題になりますよね。理由は「幅をとって邪魔になるから」。
 私の住むところの近隣の駅も、エレベーターがついている駅と、ついていない駅があります。エレベーターがある駅ではベビーカーをそのままで移動ができますが、無い駅ではたたんだベビーカーをかつぎ、息子を抱っこして(そして背中には大きなリュック)駅の階段を上り下りしなくてはなりません。そこでも、転ばないようにとのろのろ階段を上り下りする私は、通る人に邪魔には思われても、手伝ってもらったことは一度もありません。駅員さんに頼めばあるいは手を貸してくれるのかも知れませんが、今までお手伝いの声をかけてくれた人は一人もいないのです。(まあ、見かけが力持ちに見えるので、大丈夫だろうと思われているのかもしれないけど)
 そして、ベビーカーを押しての買い物は、店の限られること。今まで一人で歩いていた時は感じたことも無かったけど、通路の狭い店が案外多くて難儀しました。私の大好きな100円ショップなんて、所狭しと商品が並べられている上に、通路のあちこちにこれから並べる商品の箱が置いてあって、ベビーカーでは入れません。コンビニもしかり(特に古くからある小さめのコンビニが特に狭い)。

 こうしてみると、ベビーカーの部分を車椅子という言葉に置き換えても共通することが多いんじゃないか、と思うようになりました。(見当違いだったらすみません)
 私は今いわゆるB型ベビーカーを使っていますが、割とコンパクトなこのタイプでもこうなので、小学生くらいのお子さんが乗っている車椅子(というか、私の印象ではバギーをそのまま大きくしたようなもの。名前が分からないのですが)を見かけると、小回りもあまりきかなそうに見えて、大変だろうなあと思うようになりました。

 相手の視点に立って物事を考える、今まで自分にできていなかったんだなあ、と思います。
 
 やはり友人が外国に旅行した時に「障害者がバスに乗る時に乗客があたり前のように手を貸す。手伝ってあげているという気負いも手伝ってもらっているという気兼ねも感じない。ごく日常の風景だった」と感動していたことがありました。日本はまだまだ治安がいいのに、なぜそういうことが立ち遅れちゃうんでしょうね。
 コンサートでも、客が一斉に立ち上がって車椅子の人が舞台を全く見られなかったとか聞くし。
 私は今まで車椅子の生活をしている人が自分の周りには少ないと思い込んでいたけれど、もしかしたら私の近隣は車椅子の生活(移動)が不便すぎて外に出られないのかも、とまで思うようになりました。

 私にできることは何かな。車椅子を押すのはOK、OK。車椅子の前に立ちはだかる?そんなのはおばさんパワーで「ちょっとそこ、邪魔よ」と言いましょう。それともそいつに目隠ししてやろうかな(おっと、これは危ないか)。息子は力持ちそうだから、自分の手が必要だと思う場面で、すっとその手を差し出せる、そんな大人に育てたいと思います。