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トマトの気持ちさんへ 2 たんぽぽ  -- 2006/06/08 ..
 「がんばれ、○○」のコラムは読みましたが、まず、匿名3・3さんがおっしゃっていたことが気になりました。米国や豪州ならば、いかなる場面でも臓器を提供してくれた人に最大の謝辞を述べるとあります。
 もちろん、謝辞はありますが、移植を待つ子供やその親の辛さの方が強調されているように、私には、思われました。ドナー登録をお願いされていますが、そこに、どうして、自分たち夫婦と子供たちが脳死と判定された場合には、是非全ての臓器を提供したいという意思表示がないのか、不思議でした。

 森岡正博さんの論文も読みましたが、日米で宗教的背景が違うということへの反論の根拠があいまいであると思います。ドナーになりたくないという理由が、米国でも日本と同じだというだけでは、何も論証できないと思います。
 それよりも、ドナーになりたいという人の動機や意志の強さ、人数を比較しなければならないと考えます。インターネットで簡単に検索できる範囲では、アメリカのドナー登録が20パーセントであるに対し、日本では11パーセントだというくらいのことしか分かりません。日本のドナーカード常時携帯率は4・2パーセントとなっています。

 この結果を見る限り、日米の差はそれほど大きくないように見えます。しかし、実際に臓器を提供する人の数を比べると雲泥の差です。アメリカの人口は日本の2・5倍程度でしょうが、アメリカでは、提供者が年間7000人、移植数2万件であるのに対し、日本では臓器提供者は数十人、移植件数は百数十件です。提供者のうち脳死者は数人です。
 
 アメリカでも死者の体を傷つけることに拒否感を持つ人は多いということですが、実際に提供しようという人の数は、日本と比べれば圧倒的に多く、その背後に宗教観の相違があるであろうと、私は考えます。
 ですから、日本で子供の臓器移植が認められても、移植を求める人は増えても、提供者がいるかどうかは疑問です。実際に、法が認めても大人の提供者もごくわずかなのですから。意思表示ができない子供の臓器を提供する親は、どれくらいいるのでしょうか。

 私は、アメリカを賞賛するつもりはありません。ただ、ドナーになりたいという人には敬意を表します。子供の臓器を愛をもって他者に提供する人を尊敬します。

 臓器移植というと、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」を思い浮かべます。生前幸福だった王子が、死後に銅像となり城の外の現実を知り、ツバメに頼んで自分の刀剣についた宝石や、自分自身の目となる宝石、体の金メッキを貧しい人たちに捧げるという話です。金メッキもはげて、すっかり醜くなった王子の銅像は、溶鉱炉に投げ入れられます。しかし、溶鉱炉でも溶けなかった王子の割れた心臓とツバメは、神に召されるというものです。

 この王子は、苦しむ人々に、その人々の役にたつもの、自分の目や皮膚、与えられるものは全て与えました。今で言えば、まさにドナーです。
 人の苦しみに耐えられず、自分の全てを提供しようという意志は、尊敬すべきものだと思います。それは、死後も自分の一部が生きるようにとか、子供の一部が生き残るようにという、そういう願いとは別のものであると思います。
 
 この話は、非キリスト教徒である私には、王子が溶鉱炉に投げ入れられるところで終わってしまいます。神に召されるということに特別な救いを感じられないのです。しかし、熱心なキリスト教徒にとっては、それは心からホッとできる結末なのでしょう。そういうところに宗教的背景の違いがあると、私は思います。

 このサイトにも、子供を失った人は大勢いらっしゃいます。その方一人一人の悲しみは、臓器移植を求めていらっしゃるご両親の悲しみや苦しみに劣るものでは全くありません。そして、お子さんをなくした方からみると、ドナーとなるお子さんの方に思いがいくこともあるでしょう。子供の死に直面する親の気持ちに共感できても、それを一人で耐え忍んだ自分のことを考えると、複雑な思いをもたえる方もいるでしょう。
 本当に、デリケートな問題なのだと思います。誰かの死が待たれる医療である限り、それに違和感を感じる人がいるのは仕方のないことでしょう。

 臓器移植を求める人がいることは、人情としては分かりますが、特に尊敬すべきことだとは思いません。しかし、是非ドナーになりたいという人については、尊敬しますし、その意志は尊重されるべきものだと思います。そういう方向から臓器移植が広まっていくのなら、それは素晴らしいことでしょう。

 トマトの気持ちさんの、臓器移植推進への動機が、どうしてもドナーになりたいのになれない現行の法律を変えなければならないというものであったら、また反応も違ったのではないでしょうか。

  命を本当に大切にするとはどういうことなのか、これからも考えていきたいですね。


未久さんへ   たんぽぽ
身勝手で個人的で出口の無い意見ですが   未久
ドナーになるということ   たんぽぽ
脳死は人の死なのでしょうか   たんぽぽ
匿名4さんへ   トマトの気持ち
たんぽぽさんへ   ちかあき
サリー紫さんへ   たんぽぽ
匿名4さんへ   たんぽぽ
考える機会をありがとうございました   サリー紫
ちかあきさんへ   たんぽぽ
分からないこと   匿名4
こんばんは   ちかあき




 

   >>> 未久さんへ たんぽぽ   -- 2006/06/01..
 
 未久さん、ご返信ありがとうございます。

 未久さんのおっしゃることは、よく分かります。まさに、それが人情というものでしょう。

 しかし、もし、未久さんのお嬢さんが臓器移植を希望し、億単位の寄附を受けて、脳死判定を受けた子供さんから移植を受けて命を救われた場合、どうですか。未久さんならドナー登録されるのではないでしょうか。

 やはり、それが筋だと思うのです。私は、臓器移植には賛成ではありませんが、自分の子供を救ってもらった場合、必ずドナー登録をし、脳死段階で自分の体を役立ててもらいます。脳死と判定されたお子さんから臓器をいただいたのなら、自分の子供が脳死と判定されたら、必ずドナーにします。

 そういうことに関しては、やはり筋を通すべきだと、私は思います。


 日本国内で、「脳死した」と判定される子供からの臓器移植を可能にしようとするなら、当然、国内で臓器提供者を探すことになります。

 未久さん、もしお嬢さんが「脳死」と判定された場合、まだ心臓が動いている状態で、よその苦しんでいるお子さんに、臓器を提供されますか。
 自分の子供が生死の境をさまよっているときに、そして、たとえ脳死だと言われたとしても体は生きているのに、諦められますか。

 無理ですよね。

 自分の子供の死を受け止めることだけでも精一杯なのに、移植を待っている子供さんのために死期を早めるなんて、できませんよね。

 私は、日本における子供の臓器移植を推進していこうとするのなら、もらう側だけではなく、与える側にも立って考えなければならないと思うのです。

 もう少し、この問題について考えたいと思います。

 不妊治療についてですが、未久さんがなさった治療で、誰か苦しんだ人がいるでしょうか。
 いたとしたら、未久さんだけですよね。痛い思いをしたのも未久さんだけですよね。

 そういうことと、人の死を前提とした医療とは別に考えるべきではないでしょうか。
 
 





   >>> 身勝手で個人的で出口の無い意見ですが 未久   -- 2006/06/01..
 
何が正しいのかすら、考えも及びませんが、あくまで身勝手な個人的な気持ちを
伝えさせて下さい。そこには全く出口も糸口も無い事をご了承下さい。

私はドナー登録を潔く尊い行為と思います、が私はしていません。
理由は単純です。決して仏教心も無く心霊も感心はありませんが、私も黄泉の国に行ったら、
この姿のまま先きに行った愛する人たちに会いたいからです。
前にも書きましたが、亡くなった父は長い病で臓器提供の対象にはなりませんでしたが、
もし訪ねられたら同じ理由で断ったと思います。
一方で、もし逆の立場になったら、もし娘の命が、臓器提供によってのみしか助からない
となったら、倫理も何もかも考えずに、移植の道をがむしゃらに奔走すると思います。
身勝手です。でも愛する者と生きる、その命を守るって、そういう事ではないでしょうか。
その身勝手さはどんなに避難されても揺るがない愛情のなせるものと、私は勝手ながら
思います。他のお子さんから提供された命の代償を深く思いやる事は、その時には私には
出来ない、と思います。娘の命に結論が出て、良い結果でも悪い結果でも受け止められる様に
なり、自分を取り戻した時に、始めて出来るかもしれません。

では移植自体に関して。医学の進歩の善し悪しは、未来の人類しか証明出来ないのでは、、。
人間の自然な死を受け止めてそれを尊重する、というご意見、理解出来ます。
では人間の誕生はどうなのでしょうか?我々が挑んでいる、人工授精は?
20代の頃、始めて人工授精、試験管ベイビーと言う言葉を聞いたとき「そんな風に
して産まれた子供は可愛そう」と思いました。
でもそれから20年、私は医術の最高の技術によって我が子を授かりました。
そしてそれを心から感謝し、誇りに思っています。

私の書き連ねている事には、社会的な意見も、常識に基づいた発言も何もありません。
個人的な感情ですから、回答に繋がるような事も何も言えません。
でも個人が真剣に命の尊さを考えるとき、そこに大きな間違いは無いのではないかと思うのです。
こういった意見の交換の場は、重要な機会とも思います。
でも書き記す言葉には限界があります。誤解も生まれます。
(私も過去に何度か経験しましたから)誰かが謝罪/弁明をしなければならない様な形は出来る
限り避けたいですね。(きっと誰もそんなつもりは無いのだと思いますが)
生意気な発言に受け取られたら、ごめんなさい。
 





   >>> ドナーになるということ たんぽぽ   -- 2006/06/01..
 
 ドナーになるということはどういうことなのか、少し考えてみたいと思います。
 まず、ドナーになる意志表示をしている場合、脳死になる前からドナー管理される可能性があるようです。
 次に挙げるのは、「『脳死』・臓器移植に反対する関西市民の会」のホームページにある「脳死になる前から始められたドナー管理」の項目からの引用です。

法的脳死または3徴候死が確定していない時点で、ドナー管理をすることは非合法であることを冒頭に述べたが、藤田保健衛生大以外の施設や医師も、ドナー候補者発生の早い段階からドナー管理を推奨したり、現行の粗雑な脳死判定も無視して「すべての脳幹反射が消失した時点をもって脳死になった」と早期の脳死判断をしている。

乾 健二(京都大学大学院医学研究科器官外科学講座呼吸器外科学):本邦における肺移植の問題点―システムについての検討―、日本呼吸器外科学会雑誌、16(3)、119、2002 
 脳死下臓器提供可能な4類型病院の数を増やすことが重要と考える。 臨床的脳死と診断されてから第2回脳死判定後の移植実施施設への連絡までの時間が長いため、その後の作業の時間的余裕がない。仮に、1回目の脳死判定後に移植実施施設に連絡することが許されればこの問題はかなり軽減される。 marginal donor を利用可能にしてゆくシステムに欠けているため、さらなるドナー臓器不足となりやすい。このような状況を打開するためには、例えばドナー管理の専門家を養成し、ドナー候補発生の早い段階から適切な患者管理を行なうことが重要であると思われる。
 以上の3点を、脳死者の意思を尊重しつつも倫理的問題やプライバシー保護の問題をクリアする形で解決することが日本の移植医療の今後にとって重要であろう。

伊達 洋至(岡山大学医学部第二外科):生体肺移植での摘出肺の評価、臨床呼吸生理、33(1)、71-78、2001
 p75以降の質疑応答において、千葉大学医学部呼吸器外科の関根 康雄氏は「肺の保護というのは脳死になってから始まることではなくて、搬送されて治療が始まった段階でもうすでに肺のプロテクトを考えた治療がなければいけないということがよくわかりました。そのためには、やはり集中治療の先生とかとの共同研究者やスタッフのディスカッションが必要ですし、ここにいらっしゃるような最先端の病院だけが donor提供病院になっているわけではないので、そういうのをもうちょっと啓蒙して、donor提供病院のレベルで十分やっていけるような体制が必要であると思います」と発言した。

 「愛ですか?脳死臓器移植」というホームページには、脳低温療法によって脳死寸前の患者が助かっているという記述があります。
①脳低温療法で「蘇生限界点をはるかに越えた脳死寸前の患者」が助かつている。柳田邦男氏が書かれた「脳治療革命」(「月刊文芸春秋」1997年4月号)は、脳低温療法のくわしいレポートです。          

②生還(社会復帰)した「脳死寸前の患者」は、厚生省脳死判定基準では「脳死」だつた。

③「全脳の機能が不可逆的に停止する」蘇生限界点を前提とした脳死判定基準では、「脳死寸前」と「脳死」の判別は不可能。

④脳死判定基準に依処する臓器移植法案の「脳死体」には、「脳死寸前の患者」も含まれる。

⑤全国の救命救急現場の早急な整備なしに臓器移植法案を成立させることは、年間数千人に及ぶ「脳死寸前の患者」を死に追いやることになる。

1994年12月放映のNHKスペシャルで、日大板橋病院の林成之教授による「脳低温療法」のルポルタージュが報道され、遠藤ふじ子さんという重症な頭部外傷の方が助かつている事実が紹介されました。また今年に入っての放映では、75名中56名が生還し、この中には木下ひでおさんという重症なクモ膜下出血の患者さんも紹介され、その後無事に家に帰られるシーンもありました。

 知人は、クモ膜下出血でほぼ脳死状態(脳死と告げられたかもしれません)になり、ご主人には臓器提供が求められたそうです。ご主人も、他の人のためになるならと承諾したい気持ちもあったのですが、どうしてもできずに治療を続けたら蘇生したのです。 知人には、身体にも精神にも、後遺症は残っていませんでした。
 患者中心に治療を尽くせば、臓器は使いものにならなくなります。ドナーになる意志表示をしていたら、脳死の可能性がでたところで、患者ではなくドナーとしてみられ、治療の対象は、その患者本人ではなく、移植を待つ人になってしまうという現実があります。
 循環器学会の臓器移植のパネルディスカッションで、各会員に子供にドナーカードを持たせているかどうか聞いたところ、誰一人もたせていなかったとあります。
 本当に、ドナーになる意思表示をしても、治療は十分になされるのでしょうか?
 





   >>> 脳死は人の死なのでしょうか たんぽぽ   -- 2006/06/01..
 
 このスレは、トマトの気持ちさんへの返信としてたてたものですが、脳死問題、臓器移植問題を考えるものとして、議論できればと思います。

 というのは、多少調べていくと、どうしても納得いかないことが多々でてきたからです。

 脳死と臓器移植がセットになる場合、多くの問題が生じます。

 脳死判定を急ぐのは、新鮮な臓器が欲しいためであり、医療機関がドナーとなりうる患者の家族を騙すようなこともあるようです。
 「『脳死』・臓器移植に反対する関西市民の会」のホームページに問題となることがらがまとまっています。

一つには、脳死者は創られるという問題があります。一例として次のような事例が報告されています。

2001年8月17日に新潟市民病院において脳死臓器摘出(第17例目法的脳死判定)された40代男性は、前庭反射と咽頭反射がありながら、臨床的脳死診断の約9時間前、法的脳死判定確定の約26時間前から、臓器摘出目的の昇圧剤投与がなされた。

二、脳死状態であるにもかかわらず、心臓死したと偽ることがある。一例として次のことが挙げられます。

1997年9月29日、東京ステーションホテルで座談会“臓器移植法の成立と今後の臓器移植の問題”が開催され、太田 和夫氏(太田医学研究所)は「1982年に脳死で臓器提供をしてくれるという施設があり、これを受けて脳死者からの腎臓移植を行ないました。実質的には百数十例ぐらいやりました」と述べ、「心停止後の臓器提供」と称して脳死臓器摘出を多数行なったきたことを自ら発言した。

三、脳死と判定されても、十数年生きている例もありますし、ラザロ徴候と呼ばれるような、単なる反射とはいえない動きもしばしば見られるそうです。たとえば胸の前で手を組み祈るような姿勢をとるなどというものです。
 脳死者から臓器を摘出する際、麻酔をしなければ手術が困難なほどに動くため麻酔をするなりモルヒネを打つなりするそうです。臓器の状態を保つため、麻酔なしに手術をしたところ、暑くないのにドナーの顔に汗がふきでて、冷や汗か油汗としか考えられなかったという報告もありました。
 脳死は人の死といいますが、心臓は元気に動き体は温かく、ときには複雑な動きをする人間を、焼却炉に入れることができるかという問いかけもありました。

以下、森岡正博氏の「日本の『脳死』法は世界の最先端」から引用します。

しかしながら、脳死になったら「やがて」心臓も停止するというのは事実に反していることが、一九九八年に医学的に明らかにされた。脳神経科学のもっとも権威ある雑誌Neurology(1998,Dec.)に、UCLA医科大学のD・A・シューモンが「長期にわたる脳死」という論文を発表して、関係者の話題をさらった。彼は、過去三〇年間の医学文献に現われた脳死についての記述を徹底的に調査し、医学的なデータの裏付けが取れるものを厳選して、脳死判定から心臓停止までにかかった時間を調べた。その結果、一七【319】五例の脳死患者(原文でもpatient=患者と書かれている)の心臓が、少なくとも一週間以上、動き続けていたことが分かった。そのうち、八〇例が少なくとも二週間、四四例が少なくとも一ヶ月、二〇例が少なくとも二ヶ月、そして七例が六ヶ月のあいだ心臓が動き続けていた。さらには、二年七ヶ月が一例、五年一ヶ月が一例あり、最長では一四年五ヶ月というケースがあったのだ。

一九八九年、ベルギーのアントワープ病院のL・ハイテンスらがJournal of Neurology(vol.71)に、五一歳男性のラザロ徴候について報告した。このケースでも、脳死状態の患者は自発的に両腕を持ち上げ、首までもっていき、それから元の位置に腕を戻した。注目すべきは、その動きのあいだ、脳死患者の血圧は上昇し(230/120mmHg)、心臓は一分間一五〇回の鼓動を示し(頻脈)、顔の紅潮が見られた。何の刺激もないのに、背中を定期的に弓なりにした。これらの動きは、人工呼吸器を取り外してから、二・三分後に始まった。このケースを見ると、ラザロ徴候が、単なる「脊髄反射」の一言で片づけられないことが分かる。神経反射、筋肉収縮、心臓の鼓動、血液循環動態はすべて相互関連的に生じており、まさにシューモンが言うところの、臓器の相互のやりとりによる統合作用が見られるからである。

四、脳死判定後、復活することがある。

脳死判定後(または臨床的脳死診断後)に、脳波や痛み刺激への反応や自発呼吸の復活、脳血流の再開、ホルモンの分泌、身長が伸びる、など医師の脳死判定・診断を明らかにくつがえす、自然治癒したとも言える内容的にも目立つ症例の報告が、日本国内だけでも 13例ある(以下の1~9の詳細は各年齢別ページに掲載)。

このような事実を、まず認識しなければならないのではないでしょうか。
 





   >>> 匿名4さんへ トマトの気持ち   -- 2006/06/01..
 
匿名4さん、こんにちは。

載せないで欲しいといわれたら、どう思うか?との問いに、前のスレットは、おそらくそういわれないだろうと思います。

少なくとも、最初の私のスレット立ては、呼びかけであること、そして、皆さんが野次や罵声などの悲しいものではなく、それぞれが真剣に思ったことを率直に述べていらっしゃること、活動をすれば、賛否両論があることはしっかりと解っていらっしゃるのではないかと思っていることが、その理由です。

また、前のスレットを立てたとき、私はメールでお伝えしてありますので、ご覧になっていらっしゃるかもしれません。
この場所のアドレス、どういった掲示板であるか、私のハンドル等も簡単に紹介もしてあります。
HPからの抜粋をした以上、リンクフリーと書かれていても、どう使ったかを報告するのは最低限のルールだと私は思ってるからです。
 





   >>> たんぽぽさんへ ちかあき   -- 2006/05/31..
 
トマトの気持ちさんへ・・・のところに
横レスした上に、大きく勘違いしながら書き込んでしまって
すいませんでした。

亡くなってからの解剖も絶対に嫌だ!
って思ったくらいですから、
まだ生きている段階でドナーに・・・と言われたら、
私ならもっと嫌です。
私の息子は障害児でしたが、生活は決して楽ではありませんでしたが、
どんな身体であっても生きていてほしい・・・と
願いながら日々息子を暮らしてきました。
息子は残念ながら亡くなりましたが、仮に命が助かって
それが脳死状態であっても、そばに暖かい生身の息子の身体が
ある限りは、ずっと息子の介護をしたでしょう。
息子は亡くなる直前、医師に心臓マッサージをうけてうました。
その時は下血も始まっており、もうこれ以上はもたないという状態でした。
もう楽にしてやりたい・・・
そう思ってマッサージをやめてもらいましたが、
心臓が止まるまで数分かかりました。
息子が死んで、身体が冷たく固くなっていくのをじっと
見つめていて初めて、
(マッサージを止めるんじゃなかった・・・
 どんな姿でも生きれるんなら生きてほしかった)
と思ったのです。もう手遅れでしたが・・・
あの時の辛さ悔しさと後悔は、一生私の心から消える事はないでしょう。
脳死といえど、まだそこに命は生きていたのだから。
死んでいく者の裏側でその人の死によって生きられる命がある。
その先に続くそれぞれの家族の未来は天と地の差です・・・
 





   >>> サリー紫さんへ たんぽぽ   -- 2006/05/31..
 
 サリー紫さん、ご返信ありがとうございます。

 サリー紫さんのおっしゃることは、よく分かります。臓器提供をしたお子さんを、傷ついていて可哀そうだと思ってはいけないのでしょう。それをどう感じるか、そこにも文化の違いがあるのかもしれません。

 十字架上のイエスを信仰の対象とする方々の場合、その痛ましい姿こそが救世主であることの証であり、その姿こそが輝きに満ちたものと感じられるのではないでしょうか。

 ネットで調べた程度のことしか分からないのですが、臓器提供された息子さんを見たお母さんが、「息子は因幡の白兎になった。」と嘆かれたという記述がありました。皮膚や眼球を提供されたので、痛ましい姿になられたのでしょう。

 しかし、それが生前の息子さんの意志であるなら、そのような願いをもたれた息子さんの姿は、痛ましいからこそ輝かしいものであるのでしょう。

 頭では理解できますが、おそらく、私には自分の家族のこととしては受け入れがたいのです。
 それでも、成人した家族が、強く提供を望んでいたら、勿論その意志を受け継ぎます。しかし、小さな子供の臓器や体の部分を提供することは、私にはできないでしょう。

 そういう決断をされた方々をご立派だと尊敬しますが、私には無理だろうなあと思います。そこには、やはり文化の問題もあると思います。
 





   >>> 匿名4さんへ たんぽぽ   -- 2006/05/31..
 
 匿名4さん、ご返信ありがとうございます。

 多少誤解がありますので、まず、その点を明らかにしたいと思います。
 その箇所で書いたことは、トマトの気持ちさんに読むように勧められたコラムへの感想です。

 私が「ドナーになることを求められている」と言った方は、自分の子供の臓器移植を希望して、寄付を集め、それを成功させた方のことです。決してドナー登録を勧める人一般のことではありません。

 自分の子供が移植によって助かったのは、ドナーがいたからです。だからこそ移植医療を推進しようとされているのでしょう。そして、他の方にドナー登録をお願いしておられました。それは、親として普通の感情だと思います。その後に続く子供たち、移植医療によってのみ助かる子供たちへの思いから、そうおっしゃっているのでしょう。

 一般の方に、その方がドナー登録を勧めているからといって、自分の子供のドナー登録をしなければいけないなどとは、申しません。しかし、他の子供の臓器を提供してもらって自分の子供が助かったのなら、そして、脳死を人の死であると認めて欲しいとおっしゃるのなら、自分や自分の子供が脳死状態になったときには、法律で認められていれば、臓器提供をするのが当然ではないか思います。他者を説得しようとしながら、そういう意志を明確に示されないのは不思議でした。提供を希望する側の人間としても語ってもらいたいと思うのです。
 
 臓器移植を推進していきたいという場合、どうしても、臓器を求めている人の立場から、こんなに辛い、こんなに可哀そうだと、協賛を求めることになりがちです。
 しかし、その裏で、臓器を提供する側には、どれほどの苦しみを背負わせることになるか、その事実をきちんと認識しなければならないと思います。

 ですから、臓器移植を推進していこうとするのなら、移植を待って死に瀕した子供が苦しんでいる様と移植後の元気な姿を見せて、臓器移植の明るい面だけを見て運動を展開するだけではいけないと思うのです。

 臓器移植をするためにはドナーが必要なのですから、自分や家族をドナーにできるかどうかということを考えなければいけないと思います。

 自分や自分の家族が生死の境をさまよっているときに、手術室では臓器摘出の準備がなされ、それを運ぶためにノヘリコプターが待機しているという現実に耐えられるかどうかを考えなければならないと思うのです。

 臨終を告げられたとたん、最期を迎えた家族に感謝を述べる時間も、集まった親族と和やかにその魂を見送る時間も与えられずに、遺体を手術室に運ばれることに耐えなければなりません。

 ドナーはどこか別のところにいるだろうという感覚で推進すべきものではないと思うのです。

 しかし、そういう現実を認識し、覚悟した上で、他者に愛の手を差し伸べるような方は、いらっしゃいます。そういう方を心から尊敬いたします。

 人の死を前提とする医療を推進していこうとするのなら、私は、提供する側にたった運動にならなければいけないように思うのです。
 たしかに、自分や家族の臓器を提供することは辛い、でも、苦しむ人を助けたい。そういう思いから広がる運動なら、それは愛に満ちた運動であると思います。

 私は、臓器移植を希望する方を非難するつもりはありません。それは当然の人情でしょう。そして、提供の意志をもつ方がいらっしゃるのなら、手術が成功することを願います。それに賛同して寄附するかたがいることが悪いことだなどと思いません。
 他者の苦しみに共感し、助けたいという気持ちをもつことを批判する気持ちは全くありません。

 このスレッドは、トマトの気持ちさんへの返信であるとお考えください。
 

 
 





   >>> 考える機会をありがとうございました サリー紫   -- 2006/05/31..
 
たんぽぽさん、こんにちは。
いつもたんぽぽさんの投稿に、励まされ、勇気付けられ、考えさせられています。
今回、トマトの気持ちさん宛ての呼びかけでしたが、私も一緒に考えさせてください(押しかけですみません)。

ドナー登録の自体は、米国の場合、免許証の更新時に、「ドナー登録をする、しない」を選択し、 丸で囲んで、はい、おしまい、なんですね。
ちなみに、私自身の免許証は「臓器提供=する」となっています。

ちょっと話がずれるかもしれないのですが、火葬が大多数な日本に比べ、
キリスト教徒が多い米国では、棺に入れて土葬というのが一般的な埋葬方法なんですね。
もちろん土地が豊富、という事もありますが、宗教的な背景がそこにはあります。
私の主人の実家はカトリック系のキリスト教なのですが、義母は
「”最後の審判”が行われる時に、身体が残っていなければ、天国で永遠の命をもらえなくなるのよっ!」 という理由で火葬に大反対です。
私と主人は、「自分達が死んだら火葬にして、灰は、半分は一緒に骨壺にでも入れてもらって、残りはお気に入りの場所にまいてちょうだいね。」という意見です。

そんな私でも、たんぽぽさんのおっしゃった「盲目で臓器を抜き取られたわが子が、一人さびしく三途の川を渡る光景しかうかばないのです。 そして、そのような状態で死ぬと、来世において、その失った部分に障害をもつように思ってしまうのです。」というお気持ちはよーくわかります。
小さな子がよたよた歩いている姿がありありと浮かんできて、涙がこぼれてしまいました。
でもね、私、きっと神さまは、人様を助けるために自分の一部をあげたやさしいこの子をきっと救ってくださると思うんです。
そして来世でも、叡智に富んだやさしい子に生まれ変わるような気がするのです。
お釈迦さまだって、イエス様だって、アラーの神だって、親と子の、究極の犠牲をきっとほめて下さるんじゃないかなぁ。。。
すみません、かなり本題からずれてしまいましたね。
「臓器提供=する」を選択した私ですが、さすがに、チベット仏教の「鳥葬(魂のなくなった肉体を最後の功徳として鳥に布施する)」までは、考えられません。
これはやはり、文化の違いですね。

なんだかとりとめのない話しになってしまいましたが、
トマトの気持ちさん、たんぽぽさん、考える機会を与えてくださってありがとうございました。
 





   >>> ちかあきさんへ たんぽぽ   -- 2006/05/31..
 
 ちかあきさんのスレッド読ませていただいていました。

 お子様のご冥福を心からお祈りいたします。

 私も、今回のトマトの気持ちさんのスレッドから関心をもって多少調べただけですが、臓器移植というのは、提供者の死後に求められるものではありません。そんなことをしていたら、臓器は使い物にならなくなります。

 患者が今まさに生死の境をさまよっているときに、勧められるものですし、まだ生きているうちに、ヘリコプターが待機して、臓器摘出を待っているもののようです。

 私は、家族では父しかなくしていませんが、私には父の死を多くの人間が今か今かと待っている状況など耐えられません。
 ですから、私には臓器移植の提供者になることも、家族を提供者にすることもできません。私には、そのような苦しみに耐えるだけの人格がありません。

 ただ、そういう苦しみを乗り越えて、他者の苦しみに共感し助けようとする人はいます。そういう人を私は尊敬しますが、私には辛すぎてできません。

 本当に難しい問題ですね。

 また、色々と教えてくださいね。
 





   >>> 分からないこと 匿名4   -- 2006/05/30..
 
たんぽぽさん、こんにちは。
分からない部分を素直に質問させていただきます。

ドナー登録を求める人は、その夫婦と子供の臓器を提供する意思を持つことが必要とおっしゃり、一方で、
>ドナーになりたいという人には敬意を表します。子供の臓器を愛をもって他者に提供する人を尊敬します。
と、おっしゃっています。

ではドナー登録をしている人が今まさに臓器移植で子供を助けたいと
希望しているとしたら、その人たちのことを、たんぽぽさんはどう思われますか?それは当然のことで、皆そうあるべきとお考えですか?

あるいは○○ちゃんを救う会に寄付するとき、臓器移植という難しい問題について、みんなが明確な意思を持たなければいけないとお考えですか?
または、別の趣旨のものに寄付するとき、そのことについて自分で明確な意思を持たなくてはいけないとお考えですか?

私は正直、なにかに寄付するときに、そんなに深く考えたことがありません。
阪神大震災の時には寄付しましたけど新潟地震のときにはしませんでした。
そこに明確な理由はなく、タイミングと「なんとなく」としか、言いようがありません。

何かに寄付をするとき、お金の使い方やその他の考えなくてはいけないことは主催者に任せるというのは無責任でしょうか?
それとも、トマトの気持ちさんのように「臓器移植を推進する活動」をされている方には明確なドナー登録の意思が必要だが、寄付だけをする人にはそこまでは求めないということなのでしょうか?


それからトマトの気持ちさんにお聞きしたいことが一つあります。
もしも万一、○○ちゃんを救う会のご両親から「よその掲示板に、うちの子のことを載せないでほしい」と言われたら、どのように思われますか?
私はそこに、ひとつのポイントがあるような気がしています。
 





   >>> こんばんは ちかあき   -- 2006/05/30..
 
我が子が熱を出し苦しそうにしていたら、親なら夜も寝れず
心配で看病するでしょう。

我が子が怪我をし、血だらけになったら、あわてて病院に行き
治療してもらうでしょう。
その時に痛みに泣き叫ぶ我が子を見て、親なら涙がでるでしょう。

上記のような日常よくありえる光景でさえ、
親なら我が子を思い、重症なら身も心も張り裂けんばかりに
苦しむでしょう。

我が子の死はそれ以上、想像以上です。
突然の死なら、親は現実を受け入れられないまま、
子供のお葬式を準備しなければなりません。

人が死んだ後、身体をきれいに拭きます。
子供だと、親も一緒に拭かせてもらえます。
まだ暖かさが残る身体を
(よくがんばったね・・・もういたくないね・・・)
 ってすみずみまで綺麗にしてやります。

その時、息子は大学病院で亡くなったので、
はっきりとした死因が知りたいと、解剖を聞かれました。

もう死んでしまったけれど、もうこれ以上、息子の身体に
痛みを与えたくない・・・という気持ちの方が強く、
解剖は断りました。

日本に子供の臓器移植が許されていて、
息子の死の直後に訪ねられたとしても、
お願いだから、このまま綺麗なまま、早く家に帰らせて・・・
って言っていたと思います。

でも、これはあくまで私が息子の死の直後に感じた事です。
子供を亡くされた親御さんの中に、
(ぜひドナーとして我が子を・・・)
と思う方もいらっしゃるでしょう。
そして、臓器移植しか助からない命もある・・・
両方の思いがある時に、それが日本ではできない・・・というのは
とても残念な気もします。

とても難しいテーマですね・・・